私たちの前に現れた里親候補の家族は、みんな4歳のジョシーに興味を示していた。
――16歳の兄、ジェイスも一緒に引き取ることになると知るまでは。
けれど、私と夫は違った。
私たちは、二人とも受け入れることにした。
ところが、二人が私たちの家に来てから約1か月後。
以前ジョシーとジェイスを預かっていた里親のマレーンから電話がかかってきた。
そして彼女は、私が思いもしなかった質問をした。
「まだ、あの子たちがどうしてあなたたちを選んだのか、聞いていないの?」
夫のダニエルと私は、5年間ずっと親になることを望んでいた。
でも、何度も病院に通い、検査を受け、薬を飲み……
期待しては、失望する。
そんな日々に、私たちは疲れ果てていた。
子どもが欲しくなくなったわけではない。
ただ、もう心も体も限界だった。
ある夜、またしても辛い診察を終えた私は、キッチンの床に座り込んで泣いていた。
ダニエルが私の隣に腰を下ろした。
しばらく、二人とも何も言わなかった。
やがて彼が静かに言った。
「僕たちの人生には、まだ誰かを迎える余裕があるよ」
そして、少し間を置いて、
「養子を迎えるのはどうかな」
と言った。
それから8か月後。
私たちはジョシーと出会った。
4歳の女の子。
柔らかな茶色の巻き毛。
大きくて黒い瞳。
そして、まるで笑ってもいいのか分からないかのように、少し遠慮がちな笑顔。
彼女は養子縁組支援施設の家族面談室にある小さなテーブルで、紫色の犬らしき絵を描いていた。
ダニエルがしゃがみ込んで声をかけた。
「きれいな犬だね」
ジョシーが顔を上げた。
「オオカミだよ」
ダニエルは真剣な顔でうなずいた。
「そうか。じゃあ、とても立派なオオカミだね」
ジョシーは数秒間、彼をじっと見つめた。
そして、笑った。
その瞬間、私の中で何かが変わった。
養子を迎える人には、「出会った瞬間に特別な絆を感じるとは限らない」と言われる。
私たちも、もちろんそう聞かされていた。
それでも、ジョシーを見た瞬間から、私は彼女を大切に思った。
心の底から。
その後、担当ソーシャルワーカーのレベッカが私たち二人を廊下へ呼んだ。
「大切なお話があります」
ジョシーには兄がいた。
名前はジェイス。
16歳。
「二人は一緒に預けられることになっています」
レベッカは説明した。
「私たちは、兄妹を離したくないんです」
ダニエルが私を見た。
私は最初に思いついたことを聞いた。
「ジェイスはどこにいるんですか?」
「この廊下の先です」
「じゃあ、どうしてここに来ていないんですか?」
レベッカが一瞬、言葉に詰まった。
その沈黙だけで、何か事情があることが分かった。
「ジョシーには、これまで何組もの家族が関心を示していました」
レベッカは慎重に言った。
「でも、ジェイスも一緒だと知ると……考え直してしまうんです」
私は、会ったこともない人たちのことなのに、なぜか恥ずかしい気持ちになった。
「16歳だからですか?」
「10代の子どもは、どうしても引き取り先が見つかりにくいんです」
ダニエルが腕を組んだ。
「深刻な問題行動があるんですか?」
レベッカは言葉を選びながら答えた。
「多くの不安定な環境を経験してきた16歳の子としては、特別な問題があるわけではありません」
そして、少し間を置いて付け加えた。
「ジェイス自身も、なぜ他の家族が考えを変えたのか分かっています」
「じゃあ、私たちも考えを変えると思っているんでしょうか?」
私が尋ねると、レベッカは黙った。
そして最後に、静かに言った。
「ジェイスは、大人が本当に約束を守る人間なのか……自分の目で確かめたいんだと思います」
その言葉が、ずっと私の頭から離れなかった。
数分後、ジェイスが部屋に入ってきた。

背が高く、細身の少年だった。
暑い室内なのに、グレーのパーカーを着ていた。
前髪が額にかかっている。
レベッカが私たちを紹介すると、ジェイスは小さくうなずいただけだった。
笑顔はなかった。
ところがジョシーは、すぐに彼のところへ走っていった。
その日の午後、私たちは約2時間、一緒に過ごした。
ジョシーはみんなの分まで話していた。
一方、ジェイスはほとんど一言で答えるだけだった。
ダニエルが聞いた。
「スポーツは好きか?」
「バスケなら、まあ」
「ポジションは?」
「ガード」
ダニエルが笑った。
「僕も高校のときはガードだったよ」
その瞬間、初めてジェイスがダニエルをまっすぐ見た。
ジョシーも二人を見上げた。
ジェイスが眉を上げた。
「ガードだったの?」
ダニエルは笑った。
「昔はね。今は膝が80歳くらいになっちゃったけど」
ジェイスの顔に、小さな笑みが浮かんだ。
そのとき私は、ジョシーが二人をじっと見ていることに気づいた。
ただ話を聞いているだけだと思っていた。
次の訪問では、レベッカがみんなで夕食を食べることを提案した。
私はジョシーに聞いた。
「何が食べたい?」
「マカロニチーズ!」
私は笑った。
「やっぱりね」
そしてジェイスのほうを向いた。
「あなたは?」
ジェイスは本当に驚いたような顔をした。
「俺?」
「そう。あなた。まさかジョシーが残したものだけで生きていくつもりじゃないでしょうね」
ジェイスが妹を見る。
ジョシーはすでに私たちを見ていた。
「私、全部食べるよ!」
そう誇らしげに言った。
「お兄ちゃんに残り物なんてあげないからね!」
みんなで笑った。
それは、どこにでもある普通の夕食だった。
だからこそ、その瞬間が大切だったのかもしれない。
数週間後、レベッカから電話があった。
養子縁組の手続きが進むことになった。
そして私たちは、二人の子どもを家に迎えた。
ジョシーは最初の夜、泣いた。
二日目の夜も。
そして、その数日後も。
夜中に目を覚まして、ジェイスを呼ぶこともあった。
私やダニエルが部屋に着くより早く、いつもジェイスが彼女のベッドの横に立っていた。
「大丈夫。お兄ちゃんがいるよ」
そう言って、妹を安心させる。
私たちがすぐ近くにいることには、触れなかった。
私はそれに気づいていた。
少しだけ胸が痛んだ。
ある朝、ジョシーがジェイスより先に目を覚ました。
彼女は兄の部屋へ行かなかった。
そのまま私たちの寝室へやってきて、何も言わずにダニエルと私の間に入り込み、また眠ってしまった。
しばらくして、ジェイスが寝室の入口に現れた。
彼はジョシーを見て立ち止まった。
しばらく、何も言わなかった。
そして妹を自分の部屋へ戻そうとはせず、静かにその場を離れていった。
ジェイスのことは、もっと理解するのに時間がかかった。
礼儀正しい。
……というより、礼儀正しすぎた。
何も欲しがらない。
私が作ったものなら何でも食べる。
自分の後片付けもする。
そして、彼の部屋は不自然なほどきれいだった。
一週間ほど経った頃、私はその理由に気づいた。
彼は荷物を開けていなかった。
服はまだ2つのボストンバッグの中。
本はリュックの中。
靴はスーツケースの横にきれいに並べられていた。
ある午後、私は言った。
「タンスもクローゼットも、自由に使っていいのよ」
「分かった」
でも、彼は荷物に手をつけなかった。
なぜなのか聞きたかった。
けれど、何かが私を止めた。
強く聞けば、彼はもっと心を閉ざしてしまう。
そんな気がした。
だから、それ以上は何も言わなかった。
それでも数日おきに、私は彼の部屋をちらっと覗いてしまった。
バッグは、いつも同じ場所にあった。
一方で、家の他の場所には少しずつジェイスの存在が増えていった。
玄関にはバスケットボール。
キッチンの食品棚には彼のお気に入りのシリアル。
キッチンのコンセントには、いつも彼のスマートフォンの充電器。
寝室以外の場所には、少しずつ「ここで暮らしている」という証拠が増えていた。
なのに、彼の部屋だけは違った。
まるで、いつでも出ていける場所のようだった。
1か月が過ぎた。
ジョシーは私たちの家を「おうち」と呼ぶようになった。
ジェイスも、私とダニエルを「サー」「マム」と呼ばなくなった。
そしてある晩。
夕食中、ダニエルがひどいパスタの冗談を言った。
ジェイスは大笑いした。
笑いすぎて、鼻から牛乳が出た。
ジョシーが叫び声を上げて笑った。
私もお腹が痛くなるほど笑った。
ほんの数分間、誰も気を遣っていなかった。
誰も他の人の顔色をうかがっていなかった。
誰も、何か悪いことが起きるのを待っているようには見えなかった。
そのときジェイスがテーブル越しに手を伸ばし、ダニエルの皿からガーリックブレッドを一切れ取った。
ダニエルが彼の手を軽く叩いた。
「自分のを取れ」
ジェイスはニヤッと笑った。
そして、もう一度それを取った。
本当に、どうでもいいほど小さな出来事だった。
でも、なぜか胸が締めつけられた。
初めて、ジェイスが「明日もこのテーブルに座っている」と思っている普通の16歳の少年に見えたから。
私は家族を見渡した。
そして思った。
――私たちは、本当に家族になり始めている。
翌日の午後、電話が鳴った。
マレーンだった。
ジョシーとジェイスが私たちの家に来る前、二人を預かっていた里親だ。
以前にも一度、二人の様子を確認するために電話をくれたことがある。
私は彼女が好きだった。
二人のことを、本当に大切に思っているのが伝わってきた。
私は話した。
ジョシーは幼稚園に通い始めたこと。
ジェイスは放課後のバスケットボールクラブに入ったこと。
「最近、ジェイスがよく笑うようになったんです」
私は言った。
「ずっとじゃないですけど、確実に増えました」
「それはよかった」
「ジョシーも、ほとんど毎晩ちゃんと眠れるようになりました」
「よかったわ」
私はさらに、前の晩にジェイスがダニエルと一緒に夕食を作ったことを話した。
すると、マレーンの声色が変わった。
「ジェイスが……ダニエルと料理をしたの?」
その言い方に、私は引っかかった。
「ええ。どうして?」
「いえ……何でもないわ」
あまりにも早い返事だった。
そして沈黙。
普通の沈黙ではなかった。
何かが変わった。
「マレーン? 大丈夫?」
「ええ。ただ……」
彼女はそこで言葉を止めた。
そして、こう聞いた。
「まだ、あの子たちがどうしてあなたたちを選んだのか、聞いていないの?」
私は最初、聞き間違えたと思って笑った。
「どうして……何ですって?」
「あなたたちを選んだ理由よ」
笑顔が消えた。
「どういうことですか?」
マレーンはまた黙った。
「やっぱり……」
「何がですか?」
「レベッカに聞いてみて。どうしてあの子たちがあなたたちの家を選んだのか」
それだけ言うと、マレーンは謝り、電話を切った。
私はキッチンに立ったまま、スマートフォンを見つめていた。
――私たちを選んだ?
養子縁組の手続きの間、私はずっと、私たちが評価されていると思っていた。
親として適しているか。
家は安全か。
子どもたちの必要なものを与えられるか。
でも、違った。
子どもたちもまた、私たちを見ていたのだ。
そして突然、ジェイスのことがすべて頭に浮かんだ。
あの警戒した返事。
こちらを観察するような目。

一度も開けられていないバッグ。
ダニエルが帰宅すると、私はマレーンからの電話について話した。
「僕たちを……選んだ?」
ダニエルが聞いた。
「どうやらね」
私たちはレベッカに電話した。
マレーンから聞いたことを伝えると、レベッカはしばらく黙っていた。
そして言った。
「ジェイスがもう話していると思っていました」
「何を?」
「最初に会ったあと、私は二人に、あなたたち家族についてどう思ったか聞いたんです」
レベッカは続けた。
「そのときジェイスが戻ってきて、『あなたたちのところへ行きたい』と言ったんです」
私とダニエルは顔を見合わせた。
あの日、ジェイスはほとんど話さなかった。
「ジェイスが……私たちの家を希望したんですか?」
「はい」
「どうして?」
レベッカは少し考えた。
「それは、ジェイス本人に聞いたほうがいいと思います」
電話を切ったあと、私はまた彼の部屋を思い出した。
開けられていないバッグ。
壁際に置かれたスーツケース。
ジェイスは、私たちの家に来ることを自分から望んでいた。
なのに、どうして1か月もの間、いつでも出ていけるように準備していたのだろう。
その夜、私は聞かないでおこうかと思った。
でも、またスーツケースが目に入った。
私が気になっていたのは、ジェイスが何かを隠していたことではない。
矛盾だった。
彼は私たちの家を自分から選んだ。
なのに、ダニエルと私がいつ彼を追い出すか分からないような態度を取っている。
その二つが、どうしても結びつかなかった。
夕食後、ジョシーはソファに座って塗り絵をしていた。
ジェイスがシンクで皿を洗っていると、ダニエルが声をかけた。
「ジェイス。ちょっと話せるか?」
ジェイスの動きが止まった。
ほんの一瞬だった。
でも、私は見逃さなかった。
彼の体全体が、一瞬で「何か悪いことが起こる」と身構えた。
「何の話?」
「悪い話じゃないよ」
ダニエルが安心させるように言った。
するとジェイスの目が、すぐにジョシーへ向いた。
その小さな反応に、胸が締めつけられた。
何を言われるのかも分からないのに、彼が最初に確認したのは妹のことだった。
私たちはキッチンのテーブルに座った。
私はマレーンから電話があったことを話した。
ジェイスの表情が変わった。
「あ……」
「マレーンが、あなたがどうして私たちを選んだのか話したかって聞いたの」
ジェイスはテーブルを見つめた。
「レベッカも、あなたが私たちの家を希望したって言ってた」
「うん」
「どうして?」
ジェイスの目がリビングへ向いた。
ジョシーはまだ塗り絵をしている。
そして、ようやく彼は答えた。
「ジョシーが選んだから」
私は想像していた答えの中に、そんなものはなかった。
「ジョシーが?」
私はソファにいる小さな女の子を見た。
「でも、ジョシーは4歳だったのよ」
ジェイスはテーブルの端を親指でなぞった。
「だからだよ」
私は黙って待った。
「大事なことになると、誰もジョシーの話を聞かないんだ」
ジェイスは言った。
「小さいから。どのおもちゃが欲しいとか、何色のコップがいいとか、そういうことは聞く。でも、本当に大事なことになると、大人が全部決める」
彼は妹を見た。
「だからジョシーが『あなたたちがいい』って言ったとき、俺がレベッカにちゃんと聞いてもらった」
突然、すべてがつながった。
ジェイスは、自分自身のためにはほとんど何も求めなかった。
でも、妹が望んだことだけは、大人にちゃんと聞かせようとした。
ジョシーは自分の名前が聞こえたのか、顔を上げた。
「なに?」
ジェイスがこちらへ来るよう手招きした。
ジョシーはソファから飛び降り、私たちの間に入り込んだ。
私は彼女に言った。
「ジェイスがね、あなたが私たちを選んだって言ってるの」
ジョシーは、当然のことのようにうなずいた。
「どうして?」
すると、彼女はすぐに兄を指さした。
「お兄ちゃんと話したから」
私は思わず笑いそうになった。
「それだけ?」
ジョシーは、私が大切なことを理解していないような顔をした。
「みんな私とは話すよ」
彼女は説明した。
「遊んでくれるし、おやつもくれる」
でも、急に真剣な顔になった。
「でも、お兄ちゃんとは話さない」
そして、
「お兄ちゃんについて話すだけ」
ジェイスが目を伏せた。
私は優しく聞いた。
「何を言ってたの?」
ジョシーは迷わず答えた。
「お兄ちゃんは悪い子なのかって聞いてた」
「怒ったりするのかとか」
「別の家に住ませられないかとか」
ジェイスの顎が固くなった。
ジョシーは続けた。
「ある女の人は、私を欲しいって言ったけど……家が狭いから、お兄ちゃんは無理だって」
ジェイスが小さな声で言った。
「そのあと、ジョシーはその人と話さなくなった」
ジョシーは肩をすくめた。
「だって、あの人はお兄ちゃんがいらなかったから」
その声には、驚くほど強い確信があった。
彼女はジェイスに寄り添った。
「だから、私はもう、みんなが私に優しいかどうかなんて気にしなかった」
ダニエルが息をのんだ。
「じゃあ、何を気にしたの?」
ジョシーはダニエルをまっすぐ見た。
「お兄ちゃんに優しいかどうか」
そして私を見た。
「ママは、最初にお兄ちゃんに何が食べたいか聞いた」
次にダニエルを見る。
「パパは、お兄ちゃんとバスケの話をした」
その瞬間、私は思い出した。
最初に会ったとき、ジェイスが私に「何を食べたい?」と聞かれて、本当に驚いた顔をしていたこと。
そして、その横でジョシーが私たちをじっと見ていたこと。
ジョシーはジェイスの腰に両腕を回した。
「みんな、私が欲しかった」
そして私たちを見た。
「でも、私が欲しかったのは……お兄ちゃんのことも、私と同じくらい大切にしてくれる人だったの」
誰も、しばらく何も言えなかった。
息をすることさえ難しかった。
私はジェイスを見た。
でも、まだ一つだけ聞きたいことがあった。
「ジョシーが私たちを選んで、あなたがレベッカにここへ来たいって伝えたなら……」
私は言葉を選んだ。
「どうして、荷物を開けないの?」
ジェイスの体が固まった。
やがて彼は答えた。
「人は……考えを変えるから」
ダニエルが身を乗り出した。
「僕たちは変えないよ」
ジェイスが彼を見る。
「今はね」
ダニエルの言葉が止まった。
ジェイスは再び目を伏せた。
「みんな最初はジョシーが欲しいんだ」
彼は静かに続けた。
「俺も一緒で大丈夫だって思う。でも、そのうち俺がいることに疲れる」
私の喉が詰まった。
「だから、待ってた」
「何を?」
私が聞く。
今度は、ジェイスが私をまっすぐ見た。
「あなたたちが、俺はいらないって思う瞬間を」
一番辛かったのは、その言葉そのものではなかった。
あまりにも淡々と言ったことだった。
私たちに罪悪感を持たせようとしているわけでもない。
責めているわけでもない。
ただ、自分がこれまで学んできたことを話しているだけだった。
その瞬間、私は理解した。
あのバッグは、ただの荷物ではなかった。
――彼を守るためのものだった。
鎧だった。
大人がまた気持ちを変えたとき、すぐに出ていけるようにするための準備だった。
私は「もう絶対に追い出さない」と言いたかった。
「ここなら安全だよ」
「ずっと家族だよ」
そう伝えたかった。
でも、ジェイスはきっと、そんな言葉を大人から何度も聞いてきた。
彼に必要なのは、言葉じゃない。
だから私は、廊下の先にある彼の部屋を指さした。
「ねえ、ジェイス」
「なに?」
「あなたの部屋にあるタンス、知ってる?」
ジェイスは不思議そうな顔をした。
「うん」
「あなたが使うために買ったの」
彼は何も言わなかった。
「クローゼットもそう」
ジェイスの唇がわずかに震えた。
私は続けた。

「でも、私が『片付けなさい』って言ったから開けなくていい」
「自分で開けたいと思ったときに、好きなときに使えばいいから」
ジェイスは答えなかった。
翌朝も、荷物はそのままだった。
次の日も。
その次の日も。
私は、荷物を確認するのをやめた。
もし荷物を開けることに意味があるのなら、それはジェイス自身がそう思ったときでなければならない。
私たちに急かされてすることではない。
それから約1週間後。
私は彼の部屋の前を通りかかった。
そして、足を止めた。
ボストンバッグは――空になっていた。
一つは畳まれて、クローゼットの中にしまわれている。
本は棚に並んでいた。
靴はベッドの下にバラバラに置かれている。
椅子の背には、少し曲がったパーカーがかかっていた。
他の人が見たら、ただの普通の高校生の少し散らかった部屋に見えただろう。
でも私には、それが一つの答えに見えた。
そのとき、ジェイスがシリアルの入ったボウルを持って後ろから現れた。
私が部屋を見ていることに気づいた。
「何?」
私は部屋を見回した。
「荷物……開けたのね」
ジェイスの耳が真っ赤になった。
「変な感じにしないでよ」
「してないわよ」
「泣きそうな顔してる」
私は頬に手を当てた。
涙を拭った。
「ほら、早く朝ごはん食べなさい」
ジェイスの顔に、笑顔が浮かんだ。
そして彼は階段を下りていった。
その日、初めて。
ジェイスの部屋には、いつでも誰かの気持ちが変わったときに出ていくための、詰められたバッグがなかった。
彼はようやく、自分の部屋を「いつか出ていく場所」ではなく、
「明日も帰ってくる場所」
として受け入れ始めていた。
