第一部 母親なら誰も聞きたくない言葉
小児腫瘍科の病棟は、いつ訪れても冷たい場所だった。
けれど、その日の午後は、その冷たさがまるで骨の奥まで染み込んでくるように感じられた。
私は六歳になる娘ソフィーの病室の外に置かれたプラスチック製の椅子に、体をこわばらせたまま座っていた。足元の白い床のタイルを見つめることしかできない。
廊下のどこかで医療機器が一定のリズムで電子音を鳴らし、看護師たちは小さな声で言葉を交わしている。ワゴンがきしむ音を立てながら通り過ぎていった。
そのとき――
病室の中から、ソフィーの笑い声が聞こえた。
祖父である父が、彼女の大好きな絵本を読んであげていたのだ。
息を切らしながらこぼれるような、小さく愛らしい笑い声。
それでも、その声は開いたドア越しに私の胸へ真っ直ぐ届いた。
その美しい笑い声は、私の心を壊してしまいそうだった。
向かいに座る主治医は、ソフィーのカルテを胸に抱きしめるように持っていた。
言葉を発する前から、その表情だけで私はすべてを悟ってしまった。
「もっと良いお知らせができればよかったのですが……」
医師は静かに切り出した。
「現在の治療は、私たちが期待していたような効果を示さなくなっています。」
私は膝の上で手を固く握り締めた。
「……それは、どういう意味ですか?」
医師は一瞬ためらった。
「病気の進行を遅らせることはできるかもしれません。しかし、止めることはできません。」
彼は深く息をついた。
「進行の速さを考えると……ソフィーに残されている時間は、一年に満たない可能性があります。」
その瞬間、私は息をすることさえできなくなった。
廊下の景色がぼやけ、医師は何かを話し続けていたが、その声は遠い場所から聞こえてくるようだった。
一年もない。
私の小さな娘は、つい最近ようやく靴ひもを結べるようになったばかりだ。
暗い部屋にぬいぐるみを置き去りにすると寂しがると、本気で信じている。
絵を描くたび、空の隅には必ず笑顔の太陽を描く。
「空にも友だちがいたほうがいいもん。」
それが彼女の理由だった。
そんな子が、どうして時間切れにならなければならないのだろう。
「他に方法はないんですか……?」
私は震える声で尋ねた。
「別の薬でも、別の病院でも……。まだ試していない治療があるんじゃありませんか?」
医師は穏やかにうなずいた。
「可能性はすべて検討しています。」
「ですが、根拠のない希望をお伝えすることはできません。」
私は黙ってうなずくしかなかった。
もう言葉を発することなどできなかった。
病室では父がページをめくる音がした。
ソフィーが一番好きなのは、勇敢な少女が海を渡る物語だった。
父は何度も何度も読み聞かせてきたので、もう文字を見なくても読めるほどだった。
「おじいちゃん。」
ソフィーが甘えるように言った。
「海のところ、もう一回読んで。」
父は笑った。
「またそこかい?」
「だって、そこが一番好きなんだもん。」
「そうか。」
父は優しく笑いながら、もう一度その章を読み始めた。
私は病室の外で口元を押さえた。
泣き声を二人に聞かれたくなかったからだ。

その日の夜。
ソフィーはお気に入りのうさぎのぬいぐるみをあごの下に抱えたまま、静かに眠っていた。
私は自動販売機の前に立ち尽くしていた。
父が隣へやって来る。
「ソフィーは、本当に強い子だな。」
私は首を振った。
「強くなんてならなくてよかったのに。」
父も静かにうなずいた。
「ああ。本当は、そんな必要なんてなかった。」
そう言って、私の肩にそっと手を置いた。
しばらく私たちは何も話さず、病棟中に響くモニターの電子音だけを聞いていた。
やがて父が口を開いた。
「お前は、一人じゃない。」
私はかすかに笑った。
「お父さんがいてくれる。」
父は首を横に振る。
「それだけじゃない。」
「お前には、自分で思っている以上に支えてくれる人たちがいる。」
私は父を見つめた。
けれど、父はそれ以上何も説明しなかった。
そのときの私は、それがただ私を励ますための言葉だと思っていた。
まさか父が、その時すでに――
私が人生で最も暗い日々を乗り越えるための”贈り物”を、静かに準備していたなんて。
そのときの私は、知る由もなかった。
第二部 ソフィーのたった一つの願い
翌朝。
淡い朝日がブラインドの隙間から病室へ差し込み、ソフィーは枕にもたれながら静かに目を覚ましていた。
小さな手が、そっと私の手を握る。
「ママ。」
「なあに、ソフィー?」
「おじいちゃんがね、海は百個の病院よりずっと大きいんだって。」
こんな状況でも、私は思わず微笑んでしまった。
「きっと、その通りね。」
「それにね、見える前から匂いがするんだって。」
「うん。本当にそうよ。」
「それで、すごーく大きな音がするの?」
「昼も夜も、ずっと波の音が聞こえるの。」
ソフィーは真剣な顔でしばらく考え込んだ。
やがて病室の小さな窓へ目を向ける。
窓の外に見えるのは、灰色のビルと曇った空だけだった。
そして、小さな声で言った。
「一度だけでいいから……見てみたいな。」
「海を。」
胸が締めつけられる。
その言葉に返事ができなかった。
そのとき、背後で誰かが静かに動く気配がした。
振り向くと、病室の入口に父が立っていた。
私たちの視線が重なる。
言葉は交わさなかった。
けれど、その一瞬で父と私は同じ約束を交わした。
それは同情ではなかった。
「必ず叶えてあげよう。」
そんな無言の誓いだった。
私はソフィーの髪にそっとキスをした。
「海、見に行こう。」
ソフィーが目を丸くする。
「本当に?」
「もちろん。」
その瞬間――
彼女の顔いっぱいに笑顔が広がった。
その笑顔が、私を立ち上がらせる理由になった。
⸻
その夜。
ソフィーが眠りにつくと、私はノートパソコンを開いた。
飛行機。
ホテル。
空港からの交通手段。
病気の子どもを連れて旅行するときの注意点。
次々と検索していく。
そして画面に並ぶ金額を見て、胃が重く沈んだ。
これまでの入院費と治療費で、私の貯金はほとんど底をついていた。
付き添いのため仕事を休み続け、収入も減っている。
予定外の出費があるたびに、未来への扉が一つずつ閉じていくようだった。
そのとき、父が隣に椅子を引いて座った。
「そんな顔で値段を見るな。」
私は苦笑した。
「どうやって払えばいいのかわからないの。」
父は穏やかに言った。
「私が出そう。」
私はすぐに首を振る。
「だめ。」
「いいんだ。」
「そんな大金、お父さんにあるわけないでしょう。」
父は少し笑った。
「少しずつ貯めていた。」
「何のために?」
父はソフィーの眠るベッドへ目を向けた。
そして静かに答えた。
「本当に大切な日のためだ。」
私は涙が込み上げた。
「そんなお金、受け取れない。」
父は優しく私の手を包んだ。
「受け取るんじゃない。」
「孫への贈り物だ。」
そう言うと、父はノートパソコンを閉じた。
「ソフィーを海へ連れて行ってあげなさい。」
「数日しかいられなくてもいい。」
「その思い出だけは、あの子の心に残してやってくれ。」
私は何度も首を振った。
涙で何も見えない。
父は少しだけ強い口調になった。
「約束してくれ。」
その声には、不思議な力があった。
私はもう反論できなかった。
「……約束する。」
父は安心したように微笑んだ。
「それでいい。」
⸻
あの夜。
私は父がひどく疲れて見えたことに気づくべきだった。
立ち上がるたびに手が小さく震えていたことも。
「大丈夫?」
その一言を聞くべきだった。
でも、私の心も目も、すべてソフィーだけに向いていた。
だから気づかなかった。
父にもまた――
残された時間が、もう多くはなかったことに。
第三部 二つの別れ
数日後。
私はいつものようにソフィーの病室でベッドのそばに座っていた。
そのとき、携帯電話が鳴った。
画面には父の家の近所に住む女性の名前が表示されていた。
電話に出ると、彼女は私の名前を呼んだ瞬間に声を詰まらせた。
「……座って聞いて。」
胸の奥を冷たいものが走った。
「何があったんですか?」
彼女はしばらく黙ってから、小さく息をついた。
「お父さんが庭で倒れたの。」
「救急隊はすぐ来てくれたんだけど……」
その先を聞かなくても、私はわかってしまった。
「……お願い。」
私は震える声でつぶやいた。
「言わないで……。」
それでも彼女は静かに続けた。
「助けることができなかったの。」
「本当に、ごめんなさい。」
携帯電話が手の中で滑り落ちそうになった。
いつ電話が終わったのかさえ覚えていない。
⸻
「ママ?」
ソフィーが私の袖をそっとつかんだ。
私は娘の顔を見つめた。
父とソフィーが一緒に過ごした時間が、一瞬で頭の中によみがえる。
読み聞かせた絵本。
二人で描いた絵。
病室で何度も一緒に見た海の動画。
そして今――
私は余命わずかな娘に、一番大好きだったおじいちゃんがもう帰ってこないことを伝えなければならない。
私はゆっくり息を吸った。
「おじいちゃんの心臓が止まってしまったの。」
「お医者さんたちも、一生懸命頑張ってくれたけど……また動かすことはできなかった。」
ソフィーは何も言わなかった。
ただ、胸に抱いていたうさぎのぬいぐるみをぎゅっと抱きしめ、その長い耳を見つめていた。
病室は静まり返る。
長い時間が流れたように感じた。
やがてソフィーは私の手に自分の小さな手を重ねた。
「大丈夫だよ、ママ。」
その優しい声に、私は今にも崩れ落ちそうになった。
「どうして……大丈夫なの?」
涙をこらえながら尋ねる。
ソフィーは穏やかに微笑んだ。
「おじいちゃん、お空に行ったんでしょう?」
少し考えてから続けた。
「私もいつか行ったら、おじいちゃんを探すね。」
「それでね、『私たちはずっと大好きだよ』って伝える。」
私は笑顔を作った。
娘が私を見ていたから。
でも病室を出た瞬間、その笑顔は崩れた。
私は人気のない廊下の隅まで歩き、壁にもたれながら、その場にしゃがみ込んだ。
声を殺して泣いた。
⸻
その日の夕方、私は父の家へ戻った。
家の中は、まるで時間だけが止まってしまったようだった。
父の老眼鏡はいつもの椅子の横に置かれたまま。
流し台には飲みかけの紅茶。
庭仕事用の手袋は裏口に掛かったままだった。
どこを見ても、今にも父が「おかえり」と言って現れそうだった。
そのとき、台所のテーブルに置かれた一通の封筒が目に入った。
数日前、父から渡されたものだった。
あまりにも余裕がなく、まだ開けていなかった。
ゆっくり封を切る。
中には厚い札束が入っていた。
そして、一枚の黄色いメモ。
父らしい少し震えた字で、たった一言だけ書かれていた。
「海のためだ。文句はなし。」
私はその紙を胸に抱きしめた。
「知っていたの……?」
静まり返った台所で私はつぶやいた。
「全部、わかっていたの?」
涙は止まらなかった。
泣き続け、もう何も残っていないと思えるほど泣いた。
ようやく涙を拭いた私は、自分自身に二つの約束をした。
一つ目。
父を、感謝と愛を込めて見送ること。
そして二つ目。
何があってもソフィーを海へ連れて行くこと。

翌朝、私は主治医へ電話をかけた。
「旅行は簡単ではありません。」
医師は慎重な口調だった。
「薬は必ず持ち歩き、体調の変化にも細心の注意を払ってください。」
「わかっています。」
「できれば延期したほうが安全かもしれません。」
私は首を振った。
医師には見えなくても、その気持ちは変わらなかった。
「それはできません。」
声が震える。
「昨日、父が亡くなりました。」
「この旅行のために、お金を残してくれたんです。」
「ソフィーには……もう次の機会がないかもしれません。」
電話の向こうが静かになった。
長い沈黙のあと、医師は静かに息をついた。
「……わかりました。」
「短期間であれば許可します。」
「十分に休ませ、医療機関から離れすぎないようにしてください。」
「少しでも異変があれば、すぐ連絡を。」
私は目を閉じた。
「ありがとうございます。」
⸻
電話を切ると、私は父の葬儀の準備を始めた。
父を見送って二日後。
私はソフィーの小さな手を握りながら、飛行機へ乗り込んだ。
海へ向かうために。
第四部 海
ソフィーは飛行機の窓に顔をぴったりとつけていた。
雲が切れて地上が見えるたびに、小さく息をのみ、目を輝かせる。
「ママ、見て!」
「ちゃんと見てるよ。」
「おじいちゃんも、これ見たら喜んだだろうな。」
私は窓の外へ顔を向けた。
涙を見られたくなかったから。
「そうね。」
私は静かに答えた。
「きっと、とても喜んだわ。」
父を失った悲しみは、飛行機が飛び続ける間もずっと私の隣に座っていた。
怖いとき。
迷ったとき。
心が折れそうなとき。
私はいつも父に電話をしていた。
けれど今、人生で一番つらい時間を迎えているというのに、その父はもういない。
それでも――
ソフィーはまだ私のそばにいる。
だから私は、自分の悲しみをできるだけ静かに胸へしまい込んだ。
⸻
空港を出た瞬間、暖かな潮風が私たちを包んだ。
ソフィーはぴたりと立ち止まる。
大きく目を見開き、何度も鼻をくんくんさせた。
「匂う!」
そう叫ぶと、私の袖を両手でつかんだ。
「ママ!」
「おじいちゃん、本当だった!」
「本当に海の匂いがする!」
私はしゃがみ込み、娘をぎゅっと抱きしめた。
「そうね。」
「おじいちゃんは、たくさんのことをちゃんと知っていたの。」
⸻
ホテルへ向かうタクシーの中。
ソフィーは窓の外を流れるヤシの木や色鮮やかな建物を夢中になって眺めていた。
私は何度もスマートフォンへ手を伸ばした。
「着いたよ。」
そう父へ電話したくなった。
でも、そのたびに現実が胸へ突き刺さる。
もう電話に出てくれる人はいない。
⸻
ホテルへ着くと、受付の女性が身を乗り出してソフィーに微笑んだ。
「あなたがお名前は?」
ソフィーは胸を張って答える。
「ソフィー!」
「海を見に来たの!」
女性の表情が少し変わった。
優しさと、どこか込み上げるものをこらえるような笑顔。
「ようこそ、ソフィーちゃん。」
「お待ちしていました。」
私は思わず顔を上げた。
「……私たちを?」
しかし女性は何も説明せず、部屋のカードキーを差し出しただけだった。
「どうか素敵な時間をお過ごしください。」
私は疲れ切っていて、それ以上尋ねる気力がなかった。
午後。
私たちは海岸へ向かって歩いた。
木の遊歩道を抜けた、その瞬間――
ソフィーは足を止めた。
目の前には、どこまでも続く青い海。
太陽の光を受けて水面はきらめき、波は途切れることなく岸へ押し寄せている。
珍しくソフィーは何も質問しなかった。
ただ、息をのんで見つめていた。
やがて小さくつぶやく。
「……絵本より、ずっと大きい。」
「うん。」
「動画より、もっときれい。」
「そうね。」
ソフィーはサンダルを脱ぎ捨てると、一目散に海へ駆け出した。
最初の波が足先に触れた瞬間、
「きゃあーっ!」
嬉しそうな笑い声が浜辺いっぱいに響いた。
私はその姿を見つめていた。
浅瀬を走り回り、水しぶきを上げながら笑うソフィー。
一年近く聞いていなかったほど自由な笑い声だった。
その数分間だけは――
彼女は患者ではなかった。
ただ海ではしゃぐ、六歳の女の子だった。
そのとき、私のスマートフォンが震えた。
画面には病院からのメッセージ。
私は開いた。
検査結果が届いていた。
ソフィーの病状は、予想よりも速い速度で進行しています。
お戻りになりましたら、できるだけ早く担当医とお話しください。
私は何度も読み返した。
そして、ゆっくりとスマートフォンを下ろした。
ソフィーは波から逃げたり追いかけたりしながら笑っている。
父はもういない。
娘も少しずつ私の手の届かない場所へ向かっている。
もうすぐ――
私を必要としてくれる人は誰もいなくなるのではないか。
そんな恐怖が胸を締めつけた。
そのとき。
ソフィーが振り返り、大きく手を振った。
「ママー!」
「一緒においで!」
私はスマートフォンの画面を閉じた。
ポケットへしまう。
そして海へ向かって歩き出した。
娘の小さな手を握る。
その日の午後だけは。
未来でも過去でもなく、
目の前にある、このかけがえのない時間だけを選ぶことにした。
第五部 ホテルのドアを叩いた人
その日の夕方。
私はソフィーが夕食へ行けるよう、乾いたワンピースに着替えさせていた。
彼女はまだ興奮した様子で、海の話を夢中になって続けている。
そのときだった。
コンコン。
ホテルの部屋のドアが、しっかりとした音でノックされた。
私はドアを開ける。
廊下には、黒いスーツを着た男性が立っていた。
腕には、美しく磨かれた木箱を抱えている。
箱には一本のリボンが丁寧に結ばれていた。
「ホテルの支配人です。」
男性は穏やかに頭を下げた。
「少しだけ、お時間をいただいてもよろしいでしょうか。」
胸がざわつく。
「……何かあったんですか?」
支配人は静かに首を振った。
「悪い知らせではありません。」
そしてソフィーへ目を向ける。
「ただ、この旅行について、お二人がまだ知らないことがあります。」
私は戸惑いながらも道を開けた。
支配人は部屋へ入り、窓際のテーブルへ木箱をそっと置く。
窓の外からは波の音が静かに聞こえていた。
私は木箱を見つめながら尋ねる。
「これは……誰からですか?」
支配人は答えた。
「ある男性から、お預かりしていたものです。」
「数週間前、このホテルへ郵送されました。」
「そして、細かな指示も一緒に残されていました。」
私は息をのんだ。
「どんな……指示ですか?」
「孫娘が初めて海を見に来る。」
「その子が実際に浜辺へ立ったあとで、この箱を渡してください。」
世界がゆっくり揺れたような気がした。
「……父なの?」
支配人は静かにうなずいた。
「はい。」
「お父様は、お二人のことを本当に愛していらっしゃいました。」
ベッドの上でソフィーが身を乗り出した。
「おじいちゃんからプレゼント?」
支配人は優しく微笑む。
「どうやら、一つではないようですよ。」
私は震える手で木箱へ触れた。
見た目よりずっと重い。
「いつ……こんなことを?」
支配人は静かに答えた。
「かなり前から準備されていたようです。」
その瞬間、すべてがつながった。
父は、自分が私たちと海へ来られないかもしれないと知っていた。
心臓に異変があることも。
それでも私には何も言わなかった。
ソフィーの看病だけで精一杯の私へ、これ以上重荷を背負わせたくなかったのだ。
私はまだ未来があると思い込んでいた。
けれど父は、その頃すでに別れの準備を始めていた。
支配人は静かにドアの前まで歩いた。
「お父様は、本当に立派な方でした。」
私は小さくうなずく。
「ええ。」
「私にとって、世界で一番の父でした。」
支配人は最後に言った。
「お父様から一つだけ、お伝えするよう頼まれていました。」
私は顔を上げる。
「『あなたは決して一人ではありません。』」
その言葉だけ残し、ドアは静かに閉まった。
部屋には波の音だけが響いている。
しばらく誰も動かなかった。
やがてソフィーが小さく指を差した。
「ママ。」
「ここ。」
「カードがついてるよ。」
私はリボンに結ばれた小さなタグを外した。
そこには、父の見慣れた文字。
たった一言だけ。
「大切な二人へ。」
私は文字を何度も指でなぞった。
ソフィーが私の顔を見上げる。
「ママ。」
「手が震えてる。」
私は苦笑した。
「そうね。」
ソフィーは私の手へ自分の小さな手を重ねる。
「大丈夫。」
「おじいちゃんが怖いものを送るはずないもん。」
私は涙をこぼしながら笑った。
「そうね。」
「絶対に、そんなことはしない。」
私たちは顔を見合わせた。
そして二人一緒に、木箱のリボンをゆっくりほどいた。
第六部 見えなかった「村」
木箱のふたをそっと開けると、中にはたくさんの封筒がきれいに並べられていた。
何十通もある。
どの封筒にも、それぞれ違う筆跡で**「ソフィーへ」**と書かれていた。
ソフィーは私の膝の上によじ登り、目を輝かせた。
「一つ読んで!」
私は一番上の封筒を開けた。
最初の手紙は、病院でいつもソフィーを担当してくれていた看護師マーシーからだった。
そこにはこう書かれていた。
ソフィーは、自分がこれまで出会った子どもの中で一番勇敢な子だったこと。
つらい治療のあとでも笑顔を見せ、「ありがとう」と言ってくれたこと。
怖くて泣きたくなる日でさえ、人に優しく接してくれたこと。
読み終える前に、ソフィーが嬉しそうに叫んだ。
「マーシー先生だ!」
私は次の封筒を開く。
今度は学校の担任、ルーシー先生からだった。
ソフィーの優しさが教室を明るくしてくれたこと。
本当の勇気とは、怖くないことではない。
つらい毎日の中でも、人に優しくあり続けることなのだと、ソフィーが教えてくれたこと。
ソフィーは文字を見るなり笑った。
「ルーシー先生!」
その次は、近所に住むおじいさんから。
ソフィーがいつもドアの下へそっと差し入れてくれた絵のお礼だった。
さらに別の封筒。
病院の清掃スタッフからだった。
彼はこう書いていた。
自分がソフィーへキャンディーを渡していたのは、励ますためではなかった。
本当は、自分のほうがソフィーの笑顔に励まされていた。
だから「ありがとう」の代わりだったのだと。
箱の中にはまだまだ手紙が入っていた。
医師。
看護師。
クラスメート。
近所の人たち。
親戚。
商店の店員さん。
一度しか会ったことのないような人まで。
誰もが、自分の人生を少し明るくしてくれたソフィーとの思い出を書いていた。
私はずっと思っていた。
私たちの世界は、もう病院と家だけになってしまったと。
病室。
診察室。
小さなアパート。
そして父の家。
それが私たちの世界のすべてだと。
でも、この木箱は違うことを教えてくれた。
ソフィーは、私が思っていたよりずっと多くの人の心へ触れていた。
「こんなに……。」
私は思わずつぶやいた。
ソフィーは封筒を一つひとつ指でなぞる。
「みんな、私のこと知ってるの?」
私は微笑んだ。
「知ってるんじゃない。」
「あなたのことを、ちゃんと覚えていてくれたのよ。」
箱の一番下近くに、一通だけ違う封筒があった。
表には私の名前。
その字を見た瞬間、誰が書いたものかすぐにわかった。
父だった。
震える指で封を開く。
最後の手紙が入っていた。
⸻
愛する娘へ。
この手紙を読んでいるということは、私はきっと海へ一緒に行くことができなかったのだろう。
心臓の具合が悪かったことを話さなかったのは、ごめんなさい。
お前はもう十分すぎるほど苦しみを抱えていた。
これ以上、私の心配まで背負わせたくなかった。
でも、お前が一人ぼっちだと思ったまま、この世を去ることだけはできなかった。
だから私は、ソフィーを愛してくれている人たちにお願いした。
あの子の素晴らしいところを書いてほしいと。
私がずっと見てきたソフィーを、お前にも見てもらいたかった。
お前たちのそばには、こんなにもたくさんの人がいる。
悲しみが「もう誰もいない」とささやいたら、この箱を開きなさい。
ソフィーが「自分の人生は小さすぎた」と思ったら、この手紙を読んであげなさい。
そして、お願いだから。
海で過ごす時間を悲しみに奪われないでほしい。
明日が来る保証は、誰にもない。
だから今日、愛し合いなさい。
今日、笑いなさい。
今日、この瞬間を思い出にしなさい。
二人を心から愛しています。
父より
⸻
私はその手紙を胸へ抱きしめた。
必死に支えていた心が、音を立てて崩れていく。
私はソフィーの髪へ顔を埋め、声をあげて泣いた。
ソフィーが優しく聞く。
「ママ、どうして泣いてるの?」
私は涙をぬぐいながら答えた。
「おじいちゃんに会いたいから。」
ソフィーもうなずく。
「私も。」
そして、小さな腕で私の首をぎゅっと抱きしめてくれた。
しばらくして私は涙を拭いた。
「でもね。」
「おじいちゃんから宿題があるの。」
ソフィーは首をかしげる。
「どんな宿題?」

私は笑った。
「海を思い切り楽しみなさいって。」
ソフィーは真剣な顔になった。
「じゃあ、ちゃんとやらなきゃ。」
「おじいちゃん、人が約束を守らないの嫌いだったもん。」
私は涙を流しながら笑ってしまった。
「そうだったね。」
「本当に、その通り。」
翌朝。
私たちはもう一度浜辺へ向かった。
少し曲がった砂のお城を作り、貝殻で飾った。
ソフィーは打ち寄せる波すべてに名前を付けた。
昼食の前なのにアイスクリームを食べた。
疲れてしまったソフィーは、私がおんぶしてホテルまで帰った。
その夜。
私たちは窓際に並んで座り、海の音を聞きながら手紙を読み続けた。
悲しみは消えていなかった。
不安も消えていなかった。
でも、それらが心のすべてを占めることはなくなった。
父が残してくれた愛が、
私たちの心の中に、新しい居場所を作ってくれたのだった。
第七部 もう一つの扉が開く
海から帰って三週間後。
ソフィーは再び病院のベッドの上にいた。
ベッドの上であぐらをかきながら、クレヨンを手に海の絵を描いている。
大きな黄色い太陽の下には、自分とおじいちゃんが並んで立っていた。
私は薬を整理していた。
そのとき、病室のドアが静かに開いた。
担当の腫瘍内科医だった。
「少し、お話できますか。」
その言葉を聞いた瞬間、胸が重く沈んだ。
これまで、その言葉が良い知らせだったことは一度もなかったから。
私は静かに立ち上がり、医師と一緒に廊下へ出た。
ドアが閉まる。
医師は私を見つめ、ゆっくりと言った。
「新しい情報が入りました。」
私は息を止めた。
「小児患者を対象とした新しい臨床試験が始まります。」
「ソフィーさんのような経過をたどっているお子さんのために設計された治療です。」
私は思わず一歩前へ出た。
「……ソフィーも参加できますか?」
医師は静かにうなずく。
「最新の検査結果を見る限り、条件を満たしています。」
私は震える声で尋ねた。
「治るんですか?」
医師は目をそらさなかった。
けれど、希望だけを口にすることもしなかった。
「まだわかりません。」
「効果が出る保証もありませんし、リスクもあります。」
「ですが――」
彼は少し微笑んだ。
「新しい選択肢にはなります。」
私は病室の小窓からソフィーを見た。
彼女は鼻歌を歌いながら、青いクレヨンで海をどんどん大きく描いている。
新しい選択肢。
それは奇跡ではない。
治るという約束でもない。
でも昨日まで存在しなかった扉が、今、目の前に現れたのだった。
私は父の手紙を思い出す。
「明日がどうなるかは、誰にもわからない。」
その言葉は、もう恐ろしいものには聞こえなかった。
それは――
希望を持ってもいい。
そう許してくれる言葉のように思えた。
私は医師へ向き直る。
「いつ始められますか?」
医師は穏やかに笑った。
「すぐに準備を始められます。」
私はもう一度ソフィーを見た。
ソフィーも私に気づき、描き終えた絵を嬉しそうに掲げる。
「ママ、見て!」
「海をもっともっと大きく描いたよ!」
私はガラス越しに手を当てた。
そして医師へ静かに答えた。
「お願いします。」
「この先どんな結果になっても……私たちは挑戦します。」
治療の先に何が待っているのかはわからない。
ソフィーとあとどれだけ一緒にいられるのかもわからない。
それでも、一つだけ確かなことがあった。
私たちは、もう一人じゃない。
父が、そのことを最後まで教えてくれた。
そして病院の外では、あの日と変わらず海が静かに波を繰り返している。
広く、力強く、どこまでも続く海。
その水平線の向こうには、まだ私たちの知らない希望が、きっと待っているのだ。
