夫が仕事に出かけてから、わずか10分後。コーヒーメーカーの横に薬を置き忘れていることに気づいた私は、夫の職場まで届けることにした。
ところが、受付の女性は困惑したような表情を浮かべた。
「ご主人ですか? ご主人なら、今週はずっとお休みですよ」
私は息をのんだ。
その数分後、夫からメッセージが届いた。
「今日は仕事がめちゃくちゃ忙しいんだ。薬は今夜、帰ったら受け取るよ」
翌朝、私は夫に質問する代わりに、車であとをつけることにした。
そして、夫がいつもの職場へ向かう道をそのまま通り過ぎた瞬間、彼が隠していることは、私が想像していたよりもずっと長く続いていたのだと悟った。
夫のイーリアムは、昔から少し忘れっぽい人だった。
以前、買い物から帰ってきて食料品を片づけている途中、別のことに気を取られ、車の鍵を冷蔵庫の中に入れてしまったこともある。
だから、コーヒーメーカーの横に薬が置きっぱなしになっているのを見つけても、特に驚きはしなかった。
その朝も、いつもと変わらない平日の朝だった。
彼はシャワーを浴びた。
服を着替えた。
コーヒーを淹れた。
ノートパソコンをバッグに入れた。
そして玄関の前で、私にキスをした。
「9時から最悪な会議があるんだよ」
彼はうんざりした顔で言った。
「楽しそうじゃない?」
私はからかった。
「それなら、午前中ずっとガレージの掃除をしているほうがマシだよ」
私たちは笑い合い、彼は家を出ていった。
別れ際の様子に、何ひとつ不自然なところはなかった。
夫の職場は私の勤務先からも近かったので、私は薬を届けてあげることにした。
ついでに、彼のお気に入りのコーヒーも買った。
たったそれだけの親切が、結婚11年目にして最も奇妙な出来事のひとつにつながるとは、夢にも思っていなかった。

職場に到着した私は、コーヒーと薬のボトルを持って受付へ向かった。
「こんにちは。イーリアムの妻です。夫が薬を家に忘れてしまったので、ここに来ていると伝えていただけますか?」
受付の女性が顔を上げた。
「イーリアムさん、ですか?」
私は夫のフルネームと所属部署を伝えた。
彼女はパソコンに何かを入力した。
すると、突然その表情が変わった。
「申し訳ありませんが、ご主人はいらっしゃいません」
「あら。会議中ですか?」
彼女は少しためらった。
「実は、ご主人は週の初めから休暇を取られています。出勤予定は来週の月曜日からです」
私はしばらく、彼女の言葉を理解できなかった。
「休暇……ですか?」
「はい」
私は無理に笑顔を作った。
「ああ、そうでした。私がスケジュールを勘違いしていたみたいです」
彼女は伝言を預かりましょうかと申し出てくれた。
私は丁寧に断った。
そして、自分の困惑した表情をこれ以上隠せなくなる前に、その場を立ち去った。
私は車の中に座り込み、何分も動けなかった。
隣の座席では、夫のために買ったコーヒーが冷め始めていた。
1週間。
夫はその1週間ずっと、毎朝決まった時間に家を出ていたのだ。
いつもどおりの仕事着を着て。
ノートパソコンを持って。
締め切りの愚痴をこぼして。
そして毎晩、仕事であった出来事を話しながら帰宅していた。
火曜日には、昼休み中ずっとしゃべり続ける同僚について文句を言っていた。
前の晩には、職場の近くでひどい渋滞に巻き込まれたから帰りが遅くなったのだと言っていた。
それなのに、受付の女性によれば、彼はこの1週間、一日たりとも出勤していなかった。
真っ先に浮かんだのは、夫に電話することだった。
しかし、その直後、別の考えが頭をよぎった。
何日もわざと嘘をついていた人が、今さら正直に話してくれるだろうか?
結局、私は短いメッセージを送った。
「薬、忘れていたよ」
返信はすぐに届いた。
「今日は仕事がめちゃくちゃ忙しいんだ。帰ったら受け取るよ」
私はその文章をじっと見つめた。
もしかしたら、受付の女性がスケジュールを勘違いしていたのかもしれない。
何か事務的な手違いがあった可能性だってある。
でも、このメッセージは違った。
私は、夫が1週間も姿を見せていないという職場の建物の前に座りながら、彼から「仕事をしている」という連絡を受け取っていたのだ。
私は携帯電話を助手席に置いた。
11年間、私は夫を信頼してきた。
彼の携帯電話を調べたことは一度もない。
アカウントへのアクセスを要求したこともない。
行き先をこっそり確認したこともなかった。
私たちは、お互いを詮索する必要のない結婚生活を築いてきたつもりだった。
それなのに今、私は駐車場に座り込み、たった1本の薬のボトルをきっかけに、これまで信じてきたすべてを疑っていた。
午後になっても、私は何とか合理的な説明を見つけようとしていた。
もしかしたら、何かサプライズを計画しているのかもしれない。
仕事で問題が起きたのかもしれない。
あるいは、まだ話す準備ができていない個人的な事情があるのかもしれない。
けれど、何度考えても、ひとつの可能性が頭から離れなかった。
ほかの女性。
そんなことを考えてしまう自分が嫌だった。
それ以上に、夫の行動が、私にそんな疑いを抱かせる理由になってしまったことが嫌だった。
その日の夕方、イーリアムは6時を少し過ぎた頃に帰宅した。
「ただいま、ハニー」
「おかえり」
彼はソファの横にノートパソコンのバッグを置き、ネクタイを緩めた。
「今日は本当に疲れたよ」
私は彼の様子を注意深く観察した。
「朝の会議はどうだった?」
彼はわずかに眉をひそめた。
「どの会議?」
「出かける前に、最悪だって言っていた会議よ」
「ああ、あれか。ひどかったよ」
彼はキッチンへ歩いていった。
「薬、持って帰ってきてくれた?」
「カウンターに置いてあるわ」
「ありがとう、愛してるよ」
彼は何事もなかったかのように、私の頬にキスをした。
私はその場で問い詰めそうになった。
けれど、彼が本当はどこへ行っていたのかを知りたかった。
だから、私は待つことにした。
翌朝7時40分、イーリアムは車で家を出た。
5分後、私は彼のあとを追った。
こんなことをしたのは初めてだった。
ハンドルを握る手に、落ち着かない感覚が広がっていた。
引き返したい気持ちもあった。
それでも、夫がなぜ1週間もの間、仕事へ行くふりをしていたのかを知りたかった。
私は何台かの車を挟んで、彼のあとをついていった。
やがて、いつもなら夫が職場へ向かうために曲がる交差点に差しかかった。
私は彼のウインカーを見つめた。
しかし、点灯しなかった。
夫はそのまま直進した。
私の心が沈んだ。
受付の女性は間違っていなかった。
夫は意図的に、別の場所へ向かっていたのだ。
私は約20分間、町を横切る彼の車を追い続けた。
やがて、彼は質素なレンガ造りの建物の前にある駐車場へ入った。
特別なところは何もない建物だった。
高級ホテルでもない。
個人の邸宅でもない。
怪しげなアパートでもなかった。
ただ、私が今まで気にも留めたことのない、静かな建物だった。
夫はノートパソコンを持って車を降り、その入口から中へ消えていった。
私は通りの向かい側に車を停めた。
数分が過ぎた。
すると、再び入口のドアが開いた。
イーリアムが年配の男性と一緒に出てきた。
私は身を乗り出した。
息が止まりそうになった。
「フランク?」
フランクは、私とイーリアムが初めて家を購入した頃の隣人だった。
彼と妻のマリアンは、本当に素晴らしい人たちだった。
近所の人の荷物を預かってくれたり。
誕生日を覚えていてくれたり。
地域のごみの回収日が変われば、なぜかいつも真っ先に教えてくれたりした。
マリアンは2年前に亡くなった。
その少し後、フランクは家を売り、孫の住む場所に近いところへ引っ越した。
私たちはマリアンの葬儀以来、一度も彼に会っていなかった。
そんなフランクが今、私の夫の隣に立ち、恐竜の絵が描かれた鮮やかな緑色のお弁当箱を持っていた。
浮かび始めていた浮気の疑いは、その瞬間に消え去った。
けれど、新たな謎も同じくらい不可解だった。
なぜ夫は、以前の隣人と過ごすために、わざわざ仕事を1週間も休み、それを私に隠していたのだろう?
私は2人が屋外のテーブルに座るのを見守った。
イーリアムはノートパソコンを開いた。
フランクは書類フォルダーから何枚かのカードを取り出した。
私のいる場所からは、2人の会話は聞こえなかった。
けれど、フランクがカードを1枚じっと見つめ、そこに書かれた何かを指さしているのは見えた。
イーリアムは優しく首を横に振った。
フランクはもう一度試した。

また首を横に振る。
年配の男性は、次第に苛立っているようだった。
それでも、イーリアムは手を伸ばして答えを教えたりはしなかった。
ただ、そこに座っていた。
待っていた。
やがてフランクは、別の場所を指さした。
イーリアムが微笑んだ。
フランクはあきれたように目を回し、2人は笑い合った。
数分後、2人は荷物をまとめて再び建物の中へ戻っていった。
彼らがいなくなるのを待ってから、私は通りを渡った。
入口の近くに看板があった。
成人学習センター
その下には、3つの言葉が並んでいた。
読み書き・文章作成・デジタルスキル
私は看板を見つめた。
そして、先ほどのカードを思い出した。
フランクは、イーリアムに仕事の書類を見せていたわけではなかった。
彼は読み書きの練習をしていたのだ。
その事実に気づいた私は、入口の横でしばらく立ち尽くした。
謎のひとつは、ようやく解けた。
けれど、もうひとつの疑問は残ったままだった。
フランクを助けるためだけに、なぜ夫は5日間も私に嘘をつく必要があったのだろう?
その日の夕方、私は薬のボトルをキッチンテーブルの真ん中に置いた。
イーリアムが帰宅すると、すぐにそれに気づいた。
「薬は持っていくって言っただろ?」
「職場に?」
彼は動きを止めた。
私の言葉を聞いた瞬間、何が起きたのか理解したようだった。
「サンディ……」
「昨日、あなたの職場に行ったの」
彼はゆっくりと椅子を引いた。
「説明させてくれ」
「受付の女性に、あなたが今週ずっと休暇だと聞いたわ」
彼はうなずいた。
「そうだよ」
「それで今日、あなたの車を追いかけたの」
彼の表情が変わった。
「僕のあとをつけたのか?」
「そうよ」
「サンディ、そんなことを勝手に――」
「わかっているわ」
私は、自分の行動を正当化しようとはしなかった。
夫のあとをつけたことは、確かに一線を越えていた。
けれど、毎朝仕事へ行くふりをして、実際には存在しない会議まで作り上げていたことも、同じように一線を越えていた。
「あなたは丸々1週間、仕事をしているふりをしていたのよ」
私は言った。
彼は椅子に座った。
私は立ったままだった。
「どうしてフランクと一緒に、学習センターで毎日過ごしているの?」
彼の表情がすぐに変わった。
「フランクに会ったのか?」
「ええ」
彼は額に手を当てた。
「フランクは知っているのか?」
「いいえ」
「それならよかった」
そのひと言で、私はさらに腹が立った。
「よかった? イーリアム、あなたは1週間も私に嘘をついていたのよ。それなのに、今あなたが心配しているのはそこなの?」
「僕は彼に約束したんだ」
「どんな約束?」
「すべてを説明することはできないんだ。その中には、僕が勝手に話してはいけないこともある」
私は彼を見つめた。
「じゃあ、あなた自身のことについて説明して」
彼は顔を上げた。
「あなたは休暇を取った。毎朝、仕事着に着替えた。ノートパソコンを持って家を出た。帰ってくれば、会議や渋滞の愚痴をこぼした」
彼はうなずいた。
「そうだね」
「どうして?」
「フランクが、自分の事情を秘密にしてほしいと頼んだからだ」
「だったら、休暇を取っていることだけでも話せたはずよ」
「君は理由を知りたがっただろう?」
「もちろん。でも、誰かの助けになっていて、詳しいことは話せないって言えばよかったのよ」
イーリアムは黙り込んだ。
「君が心配すると思ったんだ」
しばらくして、彼はそう打ち明けた。
「心配? 受付の女性から、あなたが1週間も出勤していないと聞いたとき、私がどれほど怖かったかわかる?」
彼は視線を落とした。
「わかっている」
「本当にわかっているとは思えないわ」
私は向かい側の椅子に座った。
「フランクの個人的な事情を話す必要なんてなかったの。ただ、自分自身のことについて正直でいてくれればよかったのよ」
彼は2人の間にある薬のボトルを見つめた。
「彼との約束を破りたくなかったんだ」
「私はそんなこと、一度も頼んでいないわ」
「何かが起きていると君に知られたら、きっと何か問題があると気づくだろうと思ったんだ」
「問題は実際に起きていたのよ、イーリアム。私の夫が、私の目を見て嘘をついていたの」
彼は椅子の背にもたれた。
「僕はフランクを守ろうとしていたんだ」
「誰から? 私から?」
彼は、その質問に本当に傷ついたようだった。
「違う」
「じゃあ、何から守ろうとしていたの?」
彼はためらった。
「フランクは、自分のことを恥ずかしいと思っているんだ」
「文字を読むのが難しいことを?」
彼の表情から、私の推測が正しかったことがわかった。
しかし、彼がそれ以上話そうとする前に、私は手を上げた。
「やっぱり、そこから先は話さなくていいわ。その部分はフランク自身のことだもの」
イーリアムはうなずいた。
そして、自分が話せる範囲で説明を始めた。
数か月前、フランクからパソコンのことで助けてほしいと連絡があったのだという。
マリアンが亡くなってからも、イーリアムは時々、フランクの電子機器やオンラインアカウントの操作を手伝っていた。
だから、その頼み自体は特に不自然ではなかった。
「彼の家に着いたとき、パソコンに何かの申請フォームが開いていたんだ」とイーリアムは説明した。
「ウェブサイトの使い方がわかりにくいって、ずっと文句を言っていたよ」
「本当にわかりにくかったの?」
「ものすごくね」
こんな状況なのに、私は思わず少し笑ってしまった。
「でも、本当の問題はそこじゃなかったんだ」
彼は続けた。
やがてフランクは、慣れない文章を読むことが昔から苦手だったと打ち明けた。
よく見かける標識ならわかる。
人の名前も。
短い指示も。
見慣れた言葉も。
けれど、長い文章になると、理解するのがずっと難しかった。
特に、申請書などの書類は苦手だった。
結婚生活を送る中で、そうした書類のほとんどを、マリアンがさりげなく引き受けていたのだという。
「あなたも知らなかったの?」
私が尋ねると、イーリアムは首を横に振った。
「知らなかったよ」
私も知らなかった。
ふと、マリアンがいつもしていたことを思い出した。
クリスマスカードを書くこと。
地域の申請書を記入すること。
近所の集まりのためにラベルを用意すること。
招待状の文面を整えること。
当時の私は、単に夫婦で役割を分担しているのだと思っていた。
実際、そうだった部分もあるのだろう。
けれど今、その記憶は少し違った意味を持って見えた。
「それで、フランクは学習センターに通い始めたの?」
私が尋ねた。
「自分で申し込んだんだ」
「どうして今になって?」
イーリアムは少し間を置いた。
「それは、フランク自身が話したいと思ったら、本人から聞いてほしい」
今度は、私はその答えを受け入れた。
「それにしても、どうして1週間も休暇を取ったの?」
「彼は一度、通うのをやめようとしたんだ。不安だったんだよ。僕には使っていない有給休暇が残っていたから、最初の1週間だけ一緒に行こうと申し出たんだ」
「あなたが自分で教えているの?」
「いや。教えるのは先生たちだよ。僕はパソコンを使う課題や練習を手伝っている。時々、車で送り迎えもする。でも、ほとんどはそばにいて、一緒に時間を過ごしているだけだよ」
私は、学習センターの外で見た光景を思い出した。
カードを前にして苦戦していたフランク。
そして、途中で口を挟まず、答えを教えようともしなかったイーリアム。
フランクが自分で答えを見つけるまで、辛抱強く待っていた。
「それなら、どうして仕事に行くふりをしたの?」
イーリアムはため息をついた。
「僕のやり方がひどかったからだよ」
「それは間違いないわね」
「いつもどおりの生活をしていれば、君に質問されずに済むと思ったんだ」
「それで、会議をでっち上げたの?」
「そうだよ」
「昼休みにずっとしゃべっている同僚の話も?」
彼は目を閉じた。
「そうだよ」
「職場の近くの渋滞も?」
彼は再び額に手を当てた。
「あれは特にひどい言い訳だった」
私は思わず笑ってしまった。
「本当にそうね」
その日の夜遅く、フランクから電話がかかってきた。
イーリアムは私の隣に座りながら電話に出た。
「もしもし、フランク」
彼はしばらく相手の話を聞いていた。
それから私のほうをちらりと見た。
「ああ、サンディもここにいるよ」
また少し沈黙があった。
やがて、彼は私に電話を差し出した。
「君と話したいそうだ。今日のことも伝えたよ」
私は電話を受け取った。
「もしもし、フランク」
聞き慣れた、少しかすれた声が返ってきた。
「どうやら、君の家でちょっとした騒ぎを起こしてしまったらしいね」
「かなり協力者がいたみたいだけど?」
私がそう言うと、彼は笑った。
「イーリアムには、君に何も話すなと言っておいたんだ」
「ええ、聞いたわ」
「だから、怒っているなら僕のせいにしてくれていい」
私は夫のほうをちらりと見た。
「あら、大丈夫よ。あなたたち2人分、がっかりする余裕は十分にあるから」
フランクは声を上げて笑った。
しかし、その声はすぐに真剣なものへと変わった。
「ご主人には説明させなかったことが、ひとつあるんだ」
「私に説明する義務なんてないのよ」
「わかっている。でも、君には話したいんだ」
私は黙って耳を傾けた。
「3か月前、誕生日に孫がカードをくれたんだ」
フランクは少し間を置いた。
「私は眼鏡を忘れたふりをした。それから、そのカードを家に持ち帰って、引き出しにしまったんだ」
彼の声が少しずつ小さくなっていった。
「自分の孫が書いてくれた言葉を、読めなかったからね」
私の目に涙が浮かんだ。
フランクは、マリアンが生前、読み書きに関することをいつも助けてくれていたのだと話した。
手紙。
説明書。
申請書。
グリーティングカード。
彼女が亡くなってからは、情報を暗記したり、人に助けを求めたり、自分の苦手なことが周囲に知られそうな場面を避けたりしながら、何とか生活してきた。
けれど、孫から誕生日カードを渡されたとき、何かが変わったのだという。
「恐竜の絵がいっぱい描いてあったんだ。正直、ひどい絵だったけどね。でも、あの子は本当に誇らしそうだった」
フランクはしばらく黙った。
「それなのに、私はそこに書かれた言葉を読めなかった」
私は携帯電話を耳に押し当てた。
「もう、誰かに間に入ってもらわなくてもいいようになりたいと思ったんだ。孫が伝えようとしてくれたことを、自分の力で受け取れるようになりたかったんだよ」
私は数秒間、何も言えなかった。
やがて、挑戦することを決めた彼を誇りに思うと伝えた。
フランクは小さく咳払いをした。
「そんなに感動しないでくれよ、サンディ。私はまだまだ苦手なんだから」
私は涙を流しながら笑った。
翌朝、フランクは私を学習センターに招待してくれた。
到着すると、彼は鮮やかな緑色の恐竜のお弁当箱を隣に置き、テーブルに座っていた。
彼は私を見上げた。
「笑うんじゃないぞ」
「笑わないわよ」
「今、笑おうか考えていただろう」
「ちょっとだけね」
彼はにやりと笑った。
近くにはイーリアムも座っていた。
ノートパソコンを横に置いて。
フランクはフォルダーから誕生日カードを取り出した。
表紙には、パーティー用の帽子をかぶったカラフルな恐竜が描かれていた。
私は思わず手を伸ばした。
すると、フランクはすぐにカードの上に手を置いた。
「だめだ」
私は手を引っ込めた。
「ごめんなさい」
「それが、私がもう誰かに頼らなくてもいいように練習していることなんだよ」
彼は優しくそう言った。
そして、カードを開いた。
中には、孫の少し不揃いな文字でメッセージが書かれていた。
フランクは読み始めた。
ゆっくりと。
慎重に。
知らない単語に出会うと、立ち止まった。
時には、小さな声で文字をひとつずつ発音してみた。
私はすぐにわかる単語を見つけたが、思わず口に出して教えそうになった。
その瞬間、イーリアムが私をちらりと見た。
私は口を閉じた。
私たちは待った。
フランクはもう一度挑戦した。
文字をじっと見つめる。
そして、彼の表情がぱっと明るくなった。
自分の力で、その単語を読み解いたのだ。
やがて、最後の一文にたどり着いた。
「『おじいちゃんは、ぼくのいちばんの親友だよ』」
彼の声は震えていた。
フランクは椅子の背にもたれ、カードをじっと見つめた。
誰も何も言わなかった。
やがて、彼は指で片目をこすった。
「それにしても、あいつは恐竜をまともに描けないな」
彼はぼそりと言った。
私は笑った。
イーリアムも笑った。
けれど、私たち3人の目には涙が浮かんでいた。
帰る準備をしていたとき、フランクは夫のほうを向いた。
「私が単語を読むのに苦労しているとき、ほとんどの人が何をするか知っているかい?」
私は首を横に振った。
「書いてあることを教えてくれるんだ」
彼はイーリアムに目を向けた。
「でも、君のご主人は違った。私が自分で答えを見つけるまで、辛抱強く待ってくれた初めての人だったよ」
私はイーリアムを見つめた。
夫の秘密を知って以来、初めて、恐怖や苛立ちとは違う感情が胸に湧き上がった。
私は、自分が結婚した男性を誇りに思った。
けれど、それで夫が嘘をついた事実が消えるわけではなかった。
帰り道、イーリアムは自分からその話を切り出した。

「ちゃんと謝らせてほしい」
私は彼のほうを向いた。
「休暇を取って、プライバシーを守る必要がある人を手伝っているって伝えるべきだった。詳しいことを話せなくても、それで十分だったはずだ」
「そうね」
私は答えた。
「君がもっと質問してくるんじゃないかと心配だったんだ」
彼はちらりと私を見た。
「きっと質問はしたと思うわ。でも、答えられないと言えばよかったのよ」
私は続けた。
「あなたが誰かから打ち明けられた秘密を、すべて知りたいわけじゃない。ただ、私たちの結婚生活に関わる決断をするときには、正直でいてほしいの」
彼はうなずいた。
「君の言うとおりだ」
「それから、私もあなたに謝らなくちゃいけないわ」
「何について?」
「あなたのあとをつけたことよ」
彼はしばらく黙っていた。
「どうしてそうしたのかはわかるよ」
「そうかもしれない。でも、やっぱりするべきじゃなかった」
私たちはそのまま家まで帰った。
それ以上、言い争うことはなかった。
すべてが突然、完璧になったわけではない。
あの1週間、私たちは2人とも越えてはいけない一線を越えてしまった。
それでも、ようやく何が起きていたのかを理解することができた。
翌朝、イーリアムはノートパソコンと車の鍵を手に取った。
一瞬、すべてが以前と同じに見えた。
いつもの服。
いつものコーヒー。
いつもの朝の習慣。
けれど、玄関に向かった彼は、そこで立ち止まった。
「今日は学習センターに行ってくるよ」
私は顔を上げた。
「フランクと一緒に?」
「ああ」
「何か、私に話せないことでもあるの?」
彼は微笑んだ。
「実は、かなりたくさんあるよ」
「それならいいわ」
私はキッチンカウンターを指さした。
「でも、ひとつだけ、絶対に持っていくべきものがあるわよ」
そこには、また薬のボトルがコーヒーメーカーの横に置かれていた。
イーリアムは笑い、薬をバッグにしまった。
数日後、彼から写真が送られてきた。
フランクは、いつもの恐竜のお弁当箱をそばに置いて、テーブルに座っていた。
向かい側には孫がいて、小さな紙に何かを一生懸命書いていた。
フランクは身を乗り出し、書かれた言葉に集中していた。
そして、数歩離れたところには、私の夫が静かに座っていた。
口を挟まず。
答えを教えず。
ただ、待っていた。
私は写真を拡大して、少年が何を書いたのか確認することもできた。
イーリアムに電話して、何をしているのか尋ねることもできた。
もっと詳しい話を聞かせてほしいと求めることだってできた。
けれど、私は微笑み、携帯電話をそっと置いた。
ようやく、大切なことに気づいたからだ。
信頼するというのは、配偶者が誰かから託された秘密をすべて知ることではない。配偶者が自分自身の生活について話してくれることを、信じられるということだ。
そして時には、誰かを愛するというのは、いつ質問するべきかを知ることだけではない。
相手自身の物語を、相手だけのものとして、そっとしておくべきときを知ることでもある。
