ハロルドは廊下に立ち、グレースの寝室のドアを手に持っていた。
ドアノブではない。
蝶番でもない。
ドアそのものだった。
彼はグレースが眠っている間に、ドアを丸ごと取り外したのだ。
数秒間、誰も動かなかった。
グレースは裸足で廊下に立っていた。淡いブルーのネグリジェを着て、白髪は片側だけぺしゃんこになっている。片手で喉元の布をぎゅっと握りしめていた。
彼女の顔は、青白くなり、赤くなり、最後には怒りで真っ赤になった。
ハロルドは何でもないことのように、ドアを壁に立てかけた。
「こっちのほうがいいだろ?」
私は笑いをこらえるために、口を手で覆った。
グレースは彼をにらみつけた。
「あなた、何をしたの?」
ハロルドは、彼女の背後にあるドアのなくなった出入り口を見た。
「家族の間に、そんなにたくさんの壁が必要なわけないだろ」
グレースは口をぽかんと開けた。
私は、グレースが言葉を失うところを初めて見た。
それは、たった3秒ほどだった。
「元に戻しなさい!」
ハロルドはまばたきをした。
「どうして?」
「ここは私の部屋よ!」
「客室だよ」と彼は訂正した。
「私はそこで寝ているのよ!」
「それで?」
「プライバシーが必要なの!」
ハロルドは少しだけ首を傾けた。
その瞬間、私は彼が何をしているのか理解した。
彼は怒っているわけではなかった。
もし怒っていたなら、グレースはどうやって彼と争えばいいのか、すぐに分かったはずだ。
しかし、彼は違った。
彼女自身がいつも使っている理屈を、ただ冷静にそのまま返していたのだ。
グレースは彼を指さした。
「これはまったく別の話よ!」
「どこが?」
「私はあなたの母親なの!」
「そうだね」
「そして、あなたは私の息子よ!」
「そうだね」
彼女は、その2つの事実だけで議論に決着がつくと思っているようだった。
ハロルドはただ黙って待った。
グレースの顔がこわばった。
「まさか、こんなふうに私に恥をかかせるなんて!」
その言葉を聞いた瞬間、ハロルドの表情が変わった。
「恥をかかせる?」
「そうよ!」
ハロルドは私をちらりと見た。
それから、再び母親に視線を戻した。
「なるほどね」
グレースは腕を組んだ。
「ドアを元に戻しなさい。今すぐよ」
「嫌だ」
彼女の目が大きく見開かれた。
ハロルドが母親に対して、これほどはっきりと拒絶の言葉を口にすることは、ほとんどなかった。
いつもなら、もっと柔らかい言い方をしていた。
「また今度ね」
「ケンカはやめよう」
「母さんに悪気はないんだ」
「母さんはそういう人だから」
私は、そんな言い回しを何度も聞いてきた。
でも、今夜は違った。
「君は、僕たちに何の断りもなく寝室のドアを外した。僕の机の中をあさった。エマの薬にまで勝手に手を出した。僕たちの部屋にはノックもせずに入ってくる。何度もやめてほしいと頼んだよね」
「私はあなたたちのためを思ってやったのよ!」
「ドアを外したんだよ」
「あなたたちが何かを隠していたからよ!」
「僕たちは寝ていただけだ」
「私を締め出そうとしていたのよ!」
ハロルドは乾いた笑いを漏らした。
「母さん、ここは寝室だよ。プライバシーを守るための場所なんだ」
グレースは私を見た。
そして、あの瞬間が訪れた。
責任を誰かに押しつけなければならなくなったときの、あの表情の変化だ。
「全部、この女のせいね」
ハロルドの顎がこわばった。
グレースは私を指さした。
「エマと結婚する前は、あなたはこんな人じゃなかった!」
私は口元から手を下ろした。
「もう、いい加減にしてください」
グレースは私を無視した。
「昔は何でも私に話してくれた。毎日、電話もくれたわ」
「僕は17歳だったんだよ」
「誰と付き合っているのかも教えてくれた!」
「母さんがしつこく聞いてきたからだよ」
「あなたを心配していたの!」
「僕の日記まで読んだよね」
グレースは固まった。
私も固まった。
私はハロルドのほうを向いた。
「日記を書いていたの?」
「日記じゃない。ジャーナルだよ」と彼はぼそっと言った。
こんな状況なのに、私は思わず笑いそうになった。
しかし、グレースは笑わなかった。
「あれは別の話よ!」
ハロルドは母親を見た。
「何が違うの?」
「あなたは子どもだったでしょう!」
「僕は19歳だったよ」
「それでも、私の子どもだったわ!」
「僕はもう41歳だよ」
「あなたはいつまでたっても私の子どもなの!」
ハロルドの声が少し低くなった。
「だからといって、僕の結婚生活まで母さんのものになるわけじゃない」

廊下が静まり返った。
グレースは、これまで聞いたこともないほどひどいことを言われたかのように、彼を見つめていた。
ハロルドは続けた。
「この家は、エマと僕の家だ。この寝室も、エマと僕の部屋だ。僕たちの結婚生活も、エマと僕のものだ。僕の人生には、母さんが立ち入るべきではない部分もあるんだよ」
グレースの顔から怒りが消えていった。
代わりに現れたものは、もっと厄介だった。
傷ついた表情。
ただ傷ついただけではない。
相手を思いどおりに動かすための、計算された傷つき方だった。
彼女の目に涙が浮かんだ。
下唇が震えた。
「そう……分かったわ」
ハロルドは一瞬、目を閉じた。
私は、その口調を知っていた。
「エマがあなたをこんなふうに変えてしまったのね」
「母さん」
「いいの。分かったわ」
彼女は大げさに胸に手を当てた。
「私は一人であなたを育てたのよ。仕事を掛け持ちして、あなたが病気になればベッドのそばで看病した。自分のすべてを犠牲にしたの。それなのに、女が一人現れただけで、実の母親がよそ者扱いされるなんて!」
私はハロルドの肩に力が入るのを見た。
グレースは、彼の心のどこを押せばいいのか、よく分かっていた。
罪悪感。
義務感。
恩返しをしなければならないという気持ち。
そして、母親を傷つけることへの恐怖。
「母さんは、よそ者なんかじゃないよ」とハロルドは言った。
「どう見ても、そうじゃない!」
「母さんは、この家に招かれた客だよ」
グレースは侮辱されたかのような顔をした。
「客ですって?」
「そうだよ」
「自分の息子の家なのに?」
「私たちの家です」と私は言った。
彼女の目が、すばやく私に向けられた。
「あなたに話しているんじゃないのよ」
「私たちの寝室のドアを外したんですから、私にも関係がありますよ」
ハロルドは、思わず笑みを浮かべた。
グレースはそれに気づいた。
それで、ますます機嫌が悪くなった。
「分かったわ」
彼女は足早に客室へ向かった。
ドアがないおかげで、彼女がベッドの下からスーツケースを引っ張り出す様子が、こちらから丸見えだった。
ハロルドはため息をついた。
「母さん」
「もういいわ!」
彼女はスーツケースをベッドの上に放り投げた。
「あなたの考えは、よく分かったわ」
「それならよかった」
すべてが止まった。
ハロルド自身も、あまりにも即座に答えたことに、少し驚いているようだった。
グレースはゆっくりと振り返った。
「何ですって?」
ハロルドは背筋を伸ばした。
「よかったと言ったんだ。今まで、僕の考えを十分に伝えられていなかったみたいだからね」
彼女の唇がわずかに開いた。
「私が、たった一つの当たり前の境界線を守ってほしいと頼んだだけで、あなたが出ていくと決めたのなら、それは母さん自身の選択だよ」
「こんな真夜中に、実の母親を追い出すつもりなの?」
「追い出してなんかいないよ」
「ドアを取り外したでしょう!」
「先に僕たちのドアを取り外したのは、母さんだよ」
「あれは冗談だったの!」
「違うよ」
「あなたは冷酷だわ!」
「違う。僕は、言っていることとやっていることを一致させているだけだ」
グレースは彼を見つめた。
それから、苦々しく笑った。
「一致させている、ね」
彼女は私のほうを向いた。
「あなた、満足でしょうね」
私は何も言わなかった。
言いたいことがなかったわけではない。
ただ、今回はハロルド自身が言う必要があったからだ。
そして、彼は初めて自分の言葉で母親と向き合っていた。
グレースは怒りながら荷造りを始めた。
普段の彼女は、服を何でもきちんと畳む人だった。
だから、服をスーツケースに乱暴に放り込んでいる姿を見れば、どれほど腹を立てているか、すぐに分かった。
ハロルドは客室のドアを持ち上げた。
「明日、取り付け直すよ」
グレースは勢いよく振り返った。
「じゃあ、私は丸見えの状態で寝ろというの?」
ハロルドは、ただ彼女を見つめた。
皮肉な状況はあまりにも明白で、グレース自身にも分かったようだった。
私は頬の内側をかんで、笑いをこらえた。
「着替えるときは、僕たちのバスルームを使えばいいよ。あそこは鍵がかかるから」
彼女の顔は、さらに赤くなった。
「これが面白いとでも思っているの?」
「思っていないよ」
私はうっかり、喉を詰まらせたような音を立ててしまった。
グレースが私を見た。
「あなたは面白いと思っているんでしょう」
「必死に笑いをこらえているところです」
「最初から、こうなることを望んでいたのね!」
「何がですか?」
「息子を私から引き離すことよ!」
胸の奥が、すっと冷たくなった。
「グレースさん、私はただ、ノックしてほしかっただけです」
「それが始まりなのよ」
「何の始まりですか?」
「家族の分断よ」
彼女は、まるで病気の診断でもするかのように、その言葉を口にした。
「最初はノック。次は閉じられたドア。その次は、二人だけの会話。そして、気づけば自分の息子に電話しても出てもらえなくなる。妻が『境界線が必要よ』と吹き込んでいるからね」
ハロルドは、母親をこれまでとは違う目で見ていた。
「母さん」
しかし、グレースは話をやめなかった。
「こんなことが起きるのを、私が知らないとでも思っているの? 女は男と結婚すると、少しずつ男を家族から引き離していくのよ」
私は一度、吹き出してしまった。
どうしても我慢できなかった。
「寝室のドアを取り外したのは、あなたですよね」
グレースは私をにらんだ。
「私は、よそ者扱いされることを拒んでいるの!」
「あなたは、私たちの寝室と廊下を隔てていたものを、文字どおり取り外したんですけど」
「私は、自分の言いたいことを伝えようとしただけよ!」
「ハロルドも、そうしているんです」
その言葉で、彼女は黙った。
ほんの一瞬だけだったが。
次の瞬間、グレースはスーツケースを持ち上げ、階段へ向かった。
ハロルドが彼女の前に立ちはだかった。
「どこへ行くの?」
「ホテルよ」
「もう真夜中を過ぎているよ」
「歓迎されない場所にいるくらいなら、車の中で寝たほうがましよ」
まただ。
罪悪感を植えつけるための言葉。
しかし、ハロルドはそれに引っかからなかった。
「分かった」
グレースはまばたきをした。
「何ですって?」
「分かったと言ったんだ」
彼女は彼を見つめた。
「私を行かせるつもりなの?」
「自分で行きたいと言ったんだろ?」
「こんな時間なのに?」
「車の中で寝るほうがましだと言ったよね」
「本当に車の中で寝るつもりだと言ったわけじゃないわ!」
ハロルドは額を押さえた。
「じゃあ、母さんは一体どうしてほしいんだよ?」
「私のことを大切に思ってほしいのよ!」
初めて、ハロルドの声が大きくなった。
「僕だって母さんを大切に思っているよ!」
その叫び声が、廊下に響き渡った。
グレースは固まった。
私も動けなかった。
ハロルドは一度、深く息を吸った。
それから、声を落として話し始めた。
「僕は母さんを大切に思いすぎて、自分の人生のすべてを、母さんの機嫌を損ねないために費やしてきたんだ」
グレースは何も言わなかった。
「疲れ切っていても電話する。別の予定があっても会いに行く。本当はそう思っていなくても、母さんに同意する。服も、仕事も、家も、妻のことまで批判されても、ずっと我慢してきた……」
「私はエマを批判なんてしていないわ!」
ハロルドは私を見た。
私は彼を見返した。
それから、二人そろってグレースを見た。
彼女は眉をひそめた。
「何よ?」
「母さん、エマに『そのカーテンはリビングを安っぽく見せる』と言ったよね」
「実際、そう見えるもの」
「彼女のラザニアは塩辛すぎるとも言った」
「本当に塩辛かったわ」
「結婚式の花は、お葬式の花みたいだとも言った」
「ユリだったでしょう?」
「シャクヤクだったよ」
「何の花でもいいけど、しおれていたわ」
私は小さくつぶやいた。
「もう、信じられない……」
グレースは両手を広げた。
「じゃあ、今は正直に話すことすら許されないの?」
「違うよ」とハロルドは言った。「でも、相手を尊重しない行為には、それなりの結果が伴うんだ」
彼女の目が細くなった。
「それは脅し?」
「違う。境界線だよ」
「その言葉には、もううんざり!」
「母さんが嫌いだからといって、なくなるわけじゃない」
二人は見つめ合った。
そして、初めて私は、何かが変わる瞬間を目にした。
グレースはようやく理解したようだった。
ハロルドは、私にいいところを見せようとしているわけではない。
一時的な反抗でもない。
彼は本気だった。
母親との関係に、目に見えない限界が来ていたのだ。
そして、グレースがそれに気づいた途端、彼女は不気味なほど落ち着いた。
その様子は、怒鳴り声よりも私を不安にさせた。
彼女はスーツケースを床に置いた。
「分かったわ」
ハロルドは眉をひそめた。
「分かった?」
「朝までは、ここにいるわ」
そして、彼にかすかな笑みを向けた。
「騒ぎを大きくしたくないもの」
私は、ドアが二つもなくなった廊下を見た。
騒ぎなら、すでに起きている。
もしかしたら、ドラマのワンシーズン分くらいは。
それでも、ハロルドはうなずいた。
「分かった」
グレースは客室に戻った。
そして、振り返った。
「せめて、毛布を掛けてもらえる?」
ハロルドは少し考えた。
「それは、もっともだね」
彼女は甘い笑みを浮かべた。
甘すぎるほどの笑みだった。
「ありがとう」
私は、そのとき気づくべきだった。
グレースが静かに引き下がったときこそ、怒鳴っているとき以上に警戒すべきだったのだ。
しかし、もう真夜中を過ぎていた。
私たちは疲れ切っていた。
そこで、ハロルドは厚手の掛け布団を客室の入り口に吊るした。
それから、私たちは階下へ降りた。
私たちの寝室のドアは、まだ壁に立てかけられたままだった。
「今から、こっちのドアも取り付け直そうか」と彼は言った。
「午前1時に?」
彼は蝶番を見た。
それから、私を見た。
「確かに」
私たちも、寝室の入り口に毛布を掛けた。
その夜、初めて私は笑った。
ハロルドはベッドの端に腰を下ろした。
「ごめん」
「何が?」
「もっと早く、こんな状況を止められなかったこと」
私は彼の隣に座った。
「今夜、止めたじゃない」
「それが問題なんだよ」
彼は、ドアの代わりに吊るされた毛布を見つめた。
「きちんと説明すれば、いつか母さんも分かってくれると思い続けていたんだ」
「分かっていると思うよ」
彼は私を見た。
「ただ、納得していないだけ」
その言葉は、彼を傷つけた。
それが私にも分かった。
人は、ときどき何年もの間、あらゆる争いの原因は誤解にあると信じて生きている。
誤解なら、解決できるからだ。
もっと丁寧に説明すればいい。
違う言葉を選べばいい。
もう一度、やり直せばいい。
しかし、相手が自分の境界線を完全に理解しているにもかかわらず、それを尊重する必要などないと思っているのだと認めることは、ずっと難しい。
ハロルドは両手をこすり合わせた。
「父さんが家を出ていったとき、僕は12歳だったんだ」
私は、その話を少しだけ知っていた。
「父さんは、2つ隣の州に引っ越した。それから母さんは、僕のことを『小さな大黒柱』って呼ぶようになった」
私は黙って聞いていた。
「母さんは、何でも僕に話すようになった。お金の問題も、恋愛の問題も、仕事の問題も。子どもが背負うべきじゃないことまで、全部ね」
彼は気まずそうな顔をした。
「僕は、それだけ信頼されているんだと思っていた」
「本当に信頼していたのかもしれないよ」
「そうかもしれない」
それから、彼は廊下のほうを見た。
「でも、母さんは僕たちが一つのチームだと思い込むようになったんじゃないかな。僕にとって、母さんより大切な人ができるなんて、絶対にあってはならないことだと」

私は彼の手を握った。
「40年分の問題を、今夜一晩で解決する必要はないよ」
「そうだね」
それから、彼は笑った。
「でも、あのドアを外したときは、最高にスッキリしたよ」
私は大笑いし、彼の肩に顔を埋めた。
私たちがようやく眠りについたのは、午前2時ごろだった。
午前6時半、私は階下から聞こえる、食器棚を開け閉めする音で目を覚ました。
一瞬だけ、グレースがコーヒーを淹れているのかと思った。
しかし、次に聞こえたのはプリンターの音だった。
私たちのプリンターだ。
ハロルドも目を覚ました。
「今の音、聞こえた?」
「うん」
また一枚、紙が印刷された。
続けて、もう一枚。
私たちは階下へ降りた。
グレースはハロルドの書斎に立っていた。
きちんと服を着て、髪も完璧に整えていた。
スーツケースは玄関の近くに置かれていた。
そして、机の上には書類が広げられていた。
何十枚もの書類だった。
最初は、旅行関係の書類だと思った。
しかし、私は自分の名前を目にした。
エマ・コリンズ。
胃がきゅっと縮んだ。
「それは何ですか?」
グレースは顔を上げた。
恥じる様子などなかった。
むしろ、満足そうだった。
ハロルドは私の前を通り、一枚の書類をつかんだ。
彼の表情が変わった。
「母さん……」
私は別の書類に手を伸ばした。
それは銀行の取引明細だった。
私たちの口座ではない。
ハロルドと結婚する前に、私が開設した古い口座のものだった。
「一体、何なの……?」
私の手が震え始めた。
「どうやってこれを手に入れたんですか?」
グレースは書類棚を指さした。
「大切な書類を、鍵もかけずに放置するべきじゃないわね」
私は彼女を見つめた。
そして、理解した。
私たちが眠ったあと、彼女は書類を保管していた棚まで調べたのだ。
ハロルドは怒りに震えていた。
「僕たちの金融記録を勝手に調べたのか?」
「あなたに知っておいてほしいことを見つけたのよ」
「そんな権利はない!」
「私はあなたを守ろうとしているの!」
「何から?」
グレースは私を指さした。
「あなたの妻からよ!」
部屋の空気が、完全に止まった。
ハロルドは私を見た。
私は銀行明細に目を落とした。
それは、3年近く前のものだった。
赤いペンで丸がつけられた入金が一つあった。
38,000ドル。
ハロルドは眉をひそめた。
「これは何だ?」
グレースが私より先に答えた。
「そういうことよ」
私はその数字を見つめた。
そして、思い出した。
「ああ……」
ハロルドが私のほうを向いた。
「何か知っているの?」
「うん」
グレースは笑った。
「もちろん、知っているわよね」
私は彼女を無視した。
「祖母が私にくれたお金なの」
「おばあさんが?」
「家を売ったときに、妹と私にお金をくれたの。あなたにも話したよね」
ハロルドは少し考えた。
それから、うなずいた。
「そうだったね」
グレースの笑みが少し弱まった。
すると、ハロルドは金額を見直した。
「待ってくれ」
彼は眉をひそめた。
「3万8,000ドルって書いてある」
「そうだよ」
「僕は、君が2万ドルだと言っていたと思っていた」
私の胃がきゅっと縮んだ。
グレースは、その反応を見逃さなかった。
彼女の笑みが戻った。
「ほら、私の言ったとおりでしょう」
私はハロルドを見た。
「祖母が私にくれたのは3万8,000ドル。そのうち2万ドルを、家の頭金に使うって言ったの」
ハロルドは私を見つめた。
「話が違うじゃないか」
「分かってる」
「残りの1万8,000ドルはどうしたんだ?」
グレースが一歩前に出た。
「ようやく話が進んできたわね」
ハロルドは鋭い声で言った。
「母さん、黙っていて」
彼女は口を閉じた。
しかし、その目は私を見つめ続けていた。
私は古い明細を見下ろした。
「あるものを返済したの」
ハロルドは眉をひそめた。
「何を?」
私はためらった。
ほんの1秒か、2秒。
それをグレースは見逃さなかった。
「あら、ハロルド」
「母さん」
「彼女は何かを隠しているわ」
「もう黙って!」
ハロルドは再び私を見た。
「何を返済したんだ?」
寝室のドアがまだあればよかったのに、と思った。
間違ったことをしたからではない。
こういう話は、誰にも邪魔されない場所でするべきだからだ。
グレースも、それを分かっていた。
だからこそ、この話を始める前に、私たちのプライバシーを壊したのかもしれない。
「父の借金よ」と私は答えた。
ハロルドは固まった。
「お父さんの借金?」
「住宅ローンの返済が滞っていたの」
「どうして僕に話してくれなかったんだ?」
「話さなかった」
「僕たちは婚約していたんだぞ」
「そうだね」
「それなのに、1万8,000ドルも渡したのか?」
「正確には、そうじゃないの」
ハロルドの表情が再び変わった。
「どういう意味だ?」
「父の借金は、それだけじゃなかったの」
「いくらだったんだ?」
私が答える前に、グレースが机の上から別の書類を持ち上げた。
「これを見れば、分かると思うわ」
彼女はハロルドに書類を渡した。
私はその紙を見た。
そして、突然めまいがした。
それは、私たちの金融書類ではなかった。
私は、こんなものを見たことがなかった。
ハロルドは最初の行を読んだ。
次に、2行目を読んだ。
彼の顔から血の気が引いた。
「エマ……」
「何?」
彼は私に書類を渡した。
それは、金銭消費貸借契約書のコピーだった。
一番上には、私の父の名前が書かれていた。
その下には、もう一人の名前があった。
グレース・ホイットモア。
金額は――
75,000ドル。
私は二度、読み直した。
それから、グレースを見た。
「これは何ですか?」
その朝初めて、グレースの表情から勝ち誇った様子が消えた。
代わりに浮かんでいたのは、緊張だった。
ハロルドが彼女に近づいた。
「母さん」
グレースは何も言わなかった。
「どうして、エマの父親が関係する7万5,000ドルの借用書に、母さんの名前があるんだ?」
「説明できるわ」
私は彼女を見つめた。
「父のことを知っていたんですか?」
グレースの顔が青ざめた。
ハロルドは、私たち二人を交互に見た。
「一体、何が起きているんだ?」
グレースは書類に手を伸ばした。
私はそれを引き寄せた。
「触らないで」
「その書類は、あなたには関係ないことよ」
「父の名前が書かれています」
「あれは、私たちだけの秘密だったの」
私は笑った。
「秘密?」
ハロルドの表情が険しくなった。
「なるほど。秘密、ね」
グレースは彼を無視した。
そして、私をまっすぐ見た。
「それを渡しなさい」
「嫌です」
「エマ」
「嫌です」
彼女の声には、腕の毛が逆立つような何かがあった。
これは、ドアのことで言い争っていたときのグレースとは違う。
彼女は怯えていた。
そして、グレースは簡単に怯えるような人ではなかった。
私は書類を裏返した。
そこには、手書きの文字があった。
日付。
署名。
そして、一文。
私は二度、その文章を読んだ。
ハロルドが私の隣に立った。
「何て書いてあるんだ?」
私は答えられなかった。
彼が紙を受け取り、自分でその一文を読んだ。
そして、母親に視線を向けた。
「母さん……」
グレースは一歩後ずさった。
その手書きの一文には、こう書かれていた。
「1985年3月14日生まれ、H.W.に関する後見記録の移管をもって、全額返済とする。」
H.W.
ハロルド・ホイットモア。
1985年3月14日生まれ。
私の夫だった。
私はハロルドを見た。
彼はグレースを見ていた。
そして、ゆっくりと言った。
「後見記録って、何のことだ?」
グレースは口を開いた。
しかし、声が出なかった。
そのとき、玄関のチャイムが鳴った。
誰も動かなかった。
もう一度、チャイムが鳴った。
続いて、ゆっくりと3回、ドアをノックする音がした。
グレースの顔が、完全に変わった。
さっきまでの緊張が、本物の恐怖へと変わったのだ。
ハロルドは、それに気づいた。
「誰が外にいるのか、知っているんだね」
「知らないわ」
「嘘だ」
「ハロルド、絶対にドアを開けないで」
おそらく、それは彼女が口にできる最悪の言葉だった。
ハロルドは玄関へ向かった。
グレースは彼の腕をつかんだ。
「やめて!」
ハロルドは、自分の腕をつかむ彼女の手を見た。
グレースは手を離した。
「どうして?」
グレースの目に浮かぶ涙は、今度こそ本物に見えた。
「あなたには、まだ分かっていないことがあるのよ」
ハロルドは冷たく笑った。
「家族の間に秘密があってはいけないと言って、僕たちの寝室のドアを外したのは母さんだよね」
グレースはびくりとした。
彼はドアノブに手をかけた。

「だったら、もう秘密はなくそう」
「ハロルド……」
彼は玄関のドアを開けた。
ポーチには、一人の年老いた男性が立っていた。
背が高く、痩せていて、銀色の髪をしていた。
濃い色のコートを着ていた。
彼は最初にハロルドを見た。
次に、グレースを見た。
そして、顔から完全に血の気が引いた。
数秒間、その見知らぬ男性は、ただハロルドを見つめていた。
ハロルドは眉をひそめた。
「何かご用ですか?」
男性の目に涙が浮かんだ。
私たちの背後で、グレースがささやいた。
「そんな……」
男性は再びハロルドを見た。
そして、廊下全体が静まり返るような言葉を口にした。
「君の目は、お父さんにそっくりだ」
ハロルドは凍りついた。
「父は亡くなりました」
年老いた男性は、ゆっくりと首を横に振った。
「いや……」
グレースはよろめきながら後ずさった。
男性は一歩、前に出た。
「違うんだ、息子よ」
彼の声が震えた。
「君のお父さんは……今、君の目の前に立っている」
