第1章:51回の電話
リリーは頭が痛いと言いながら、ベッドに入った。
その夜、私の人生が悪夢に変わろうとしているなど、予感させるものは何ひとつなかった。
リリーはグリルドチーズサンドイッチを半分食べたあと、トマトスープは変な匂いがすると言って拒んだ。そして、幼稚園の頃から使っている黄色い毛布にくるまり、私の隣に身を寄せた。
午後9時半、私はリリーの熱を測った。
101.8°F、約38.8℃。
小児科医に勧められていた解熱剤を飲ませ、水を持ってきた。そして、廊下の明かりが目に痛いと訴える彼女のそばに座り続けた。
午前0時までに、熱は104°F、約40℃を超えていた。
午前0時26分、リリーは嘔吐した。
午前0時41分には、体を起こして座ることさえ、ほとんどできなくなっていた。
午前0時53分、私は彼女に顎を胸に近づけてみるよう頼んだ。すると、リリーは痛がって泣き出した。
全身の血の気が引いた。
私は小児科の夜間緊急相談窓口に電話した。
30秒も話さないうちに、看護師が言った。
「ヴァンスさん、今すぐ娘さんを救急外来に連れて行ってください」
私はパジャマの上から服を着て、リリーにコートを羽織らせた。足に力が入らず、脚の感覚もおかしいと言う彼女を抱き上げ、裸足のままガレージを通って車へ向かった。
リリーの体重は47ポンド、約21キロだった。
その数字を覚えているのは、半年前、家の体重計に乗った彼女が誇らしげに体重を教えてくれたからだ。
「ママ、もうすぐ50ポンドだよ!」
あの夜、21キロの小さな体は、耐えられないほど重く感じられた。
シカゴ郊外の病院に到着すると、すべてが猛烈な速さで動き始めた。
看護師がリリーを私から引き継いだ。
医師が私に質問した。
別の看護師が点滴を入れるため、彼女のパジャマの袖を切った。
誰かが腰椎穿刺について話していた。
別の誰かが、細菌性髄膜炎という言葉を口にした。
そして、集中治療室。
私が最初にデイビッドへ電話したのは、午前1時18分だった。
留守番電話に直行した。
午前1時21分、再び電話した。
1時24分。
そして1時29分。
彼の電話は2回ほど鳴ったあと、切れた。
デイビッドはバハマで休暇を過ごしていた。
表向きの理由は、「燃え尽きた」状態から抜け出すためだった。
クリスマスを過ぎた頃から、彼はその言葉を使い始めていた。
仕事に疲れた。
責任に疲れた。
誰もが自分を頼ってくることに疲れた。
特に彼が嫌がっていたのは、父親であることは一時的に辞められるものではないと、私が何度も指摘することだった。
2週間前、彼はヨットでの休暇を宣言した。
彼はそれを「リセット」と呼んだ。
一人で行くのだと言っていた。
仕事の電話は取らない。
SNSも使わない。
家族からの邪魔も入れない。
7歳の娘が家にいるのに、2週間は長すぎないかと私が尋ねると、彼はまるで私のほうがおかしいかのような目で見た。
「だからこそ必要なんだよ、サラ。君は僕に息をつく暇さえ与えてくれない」
あとになって、私はジュリアン・マーサーが彼と一緒に行っていたことを知った。
ジュリアンは25歳で、8か月前からデイビッドのフィットネストレーナーをしていた。
初めて会ったとき、彼女は笑いながらデイビッドの肩に手を置き、そのまま必要以上に長く手を離さなかった。
あとで私はそのことを指摘した。
デイビッドは笑った。
「彼女は誰にでも触るんだよ。それが仕事だから」
どうやら、既婚者の顧客と寝ることも、彼女が提供するサービスの一つだったらしい。
午前2時47分、パテル医師が私を小さな診察室に呼んだ。
彼がとても若く見えたことを覚えている。
悲しみは、妙な細部を記憶に焼きつける。
必ずしも重要ではないことまで。
眼鏡。
白衣についたコーヒーの染み。
ほどけた靴ひも。
「娘さんは、非常に危険な状態です」
彼は慎重にそう告げた。
そんなことは、すでにわかっていた。
「私に何ができるんですか?」
「私たちは可能な限りの治療を行っています。ただ、もう一人の親御さんがいれば……」
「今、電話しています」
デイビッドは、そのあと私がかけた電話を3回続けて意図的に拒否した。
画面に表示されていた。
着信拒否。
電話に出ないのとは違う。
彼は私の名前を見て、電話に出ないことを自分で選んだのだ。
私はメッセージを打った。
リリーが集中治療室にいる。今すぐ電話して。
返事はなかった。
私は写真を送った。
白い病院の毛布に包まれたリリー。
点滴の管。
酸素マスク。
心電図モニター。
手首には、夏のキャンプでつけてもらった小さな紫色のブレスレットが、まだ残っていた。
それでも、返事はなかった。
午前4時までに、私は26回電話していた。
午前5時には39回。
午前5時38分、ようやくデイビッドからメッセージが届いた。
「サラ、もうやめてくれ」
私は文字がぼやけるまで、その文章を見つめた。
再び電話した。
拒否された。
午前5時41分、次のメッセージが届いた。
「デジタルデトックスをするって言っただろ。
君がこんなふうに何度も僕に連絡しようとするから、息苦しいって言ったんだ。
誰かが文字どおり死にかけているのでなければ、僕が帰るまで自分で何とかしてくれ」
私は、その一文から目を離せなかった。
誰かが文字どおり死にかけているのでなければ。
わずか6メートルほど先、ガラスの壁の向こうでは、6人の医療スタッフが彼の娘の命を救おうと必死に戦っていた。
私は返信した。
死にかけているの。
続けて送った。
デイビッド、リリーが死んでしまうかもしれない。
そして、最後に。
お願い、あの子に電話して。
午前6時2分、彼から返事が来た。
電話ではなかった。
またメッセージだった。
「もう君とはやっていけない。
何か問題が起きるたびに、全部僕の責任にされる生活から、2週間だけでも解放されたいんだ。
これから携帯の電源を切る。
ヨットには連絡するな」
ヨット。
妻ではない。
娘でもない。
病院でもない。
彼が守ろうとしていたのは、休暇が邪魔されないことだった。
15分後、姉のレベッカが到着した。
靴は左右で違い、パジャマの上にコートを羽織っていた。
彼女はリリーの病室の外で、デイビッドのメッセージを見つめていた私を見つけた。
そして、その文章を読んだ。
彼女の表情が変わった。
「彼はどこにいるの?」
「バハマ」
「あの女と?」
私は顔を上げた。
ジュリアンのことは、私が認めるずっと前からレベッカは疑っていた。
「そうよ」
彼女は私の隣に座った。
そのときだけは、私の結婚生活について何の助言もしなかった。
ただ、私の携帯を手に取った。
「もう電話するのはやめなさい」
「伝えなきゃいけないの」
「もう伝えたでしょう」
「彼はリリーの父親なのよ」
「だから、もう伝えたでしょう」
「もし目を覚まして、パパはどこって聞いたら?」
レベッカは唾を飲み込んだ。
「そうなったら、そのときに一緒に考えましょう」
リリーは、ほんの一瞬だけ目を覚ました。
その日の午前10時17分だった。
意識はほとんどなかった。
彼女は半分だけ目を開けた。
私はすぐに身を乗り出した。
「ママはここにいるよ」
リリーの唇が動いた。
私は耳を近づけた。
「どうしたの、ベイビー?」
「寒い……」
それだけだった。
私は両手で彼女の小さな手を包み、さすった。
「大丈夫よ。ママはここにいるからね」
それが、リリーが私に話しかけてくれた最後の言葉になった。
昼食の時間になる頃、医師たちは「まだ希望があります」と言わなくなっていた。
午後4時、彼らは脳の壊滅的な腫れについて話し合った。
午後5時半、ほかの親族を呼びたいかと尋ねられた。
レベッカが母に電話した。
私はデイビッドには二度と連絡しなかった。
携帯には、51回の発信履歴が残っていた。
午後6時14分、モニターの音が変わった。
看護師がカーテンを引いた。
パテル医師がリリーのベッドのそばに立っていた。
私は彼女の右手を握ったまま、機械が、もう彼女の体にはできないことをするのをやめていくのを見つめていた。
私は何度も彼女の髪をなで続けた。
悪夢を見た夜、リリーはよく私のベッドに潜り込んできて、こうささやいた。
「髪、ママ」
眠りにつくまで、額にかかった髪を払ってほしかったのだ。

だから私は、いつもどおりにした。
髪をなでた。
何度も。
何度も。
何度も。
そして、パテル医師がそっと彼女の死を告げるまで、ずっと続けた。
自分が叫んだかどうかは覚えていない。
あとでレベッカに聞いたが、私は叫んでいなかったそうだ。
ただ、リリーの額に自分の額を押し当て、同じ言葉を繰り返していた。
「ママはここにいるよ」
やがて看護師が、リリーの肩まで毛布をかけた。
私の手の中で、彼女の手は少しずつ冷たくなっていった。
午後7時3分、携帯が振動した。
一瞬だけ、ありえない期待を抱いた。
デイビッドからの連絡かもしれない、と。
しかし、画面に表示されたのは、学校からの自動通知だった。
金曜日はパジャマデーなので、子どもたちにパジャマを着せて登校させてください、というお知らせだった。
私は笑った。
壊れたような、恐ろしい笑い声だった。
それから携帯の電源を切った。
デイビッドに、また着信拒否できる電話を通じて、娘の死を知らせるつもりはなかった。
彼は連絡が取れない状態でいたかったのだ。
ならば、望みどおりにしてあげよう。
完全に。
第2章:父親のいない葬儀
その後の4日間、私は母親なら誰も経験したくない質問を次々と受けた。
白い花にしますか、それともピンクの花にしますか?
棺の蓋は開けますか、閉じますか?
追悼カードにはどの写真を使いますか?
リリーには何を着せますか?
好きだった曲は何ですか?
土葬にしますか、それとも火葬にしますか?
私は、悲しみには終わりのない書類仕事がつきものなのだと知った。
書類は、娘がいなくなったことなど気にしない。
葬儀社には署名が必要だった。
墓地には許可が必要だった。
学校には連絡しなければならなかった。
保険会社は金額を求めた。
誰も代わりにやってくれないから、私はすべてをこなした。
レベッカは私の代わりに決めようかと申し出てくれた。
それでも、リリーに着せる青いワンピースを選ぶことだけは、どうしても自分でやりたかった。
小さなヒナギクの刺繍が入ったワンピース。
母の誕生日会で着ていたものだった。
デイビッドは、あの誕生日会にも来なかった。
仕事。
いつだって仕事。
けれど、もう彼を家から遠ざけていたのは、仕事ではなかった。
リリーが亡くなった翌朝、私はデイビッドに最後のメッセージを送った。
彼を必要としていたからではない。
いつか、自分ができる限りのことをしたと証明できるようにするためだった。
「リリーは昨日の午後6時14分に亡くなりました。
葬儀は月曜日の午前10時、セント・マシュー教会で行います。
もう二度とあなたには連絡しません」
メッセージは配信された。
返事はなかった。
数か月後、ジュリアンは、デイビッドがそのメッセージを読んでいたと認めた。
ただ、彼は私の言葉を信じなかったのだ。
彼女によれば、デイビッドは画面を見つめながら、こう言ったそうだ。
「僕を家に帰らせるために、あいつはこんなことを言っているんだ」
私は最終的に、その言葉を弁護士を通じて知った。
長い間、知らなければよかったと思っていた。
月曜日の朝、凍るような雨が降っていた。
リリーの担任教師は黒い傘を差し、クラスの保護者23人と一緒に立っていた。
校長も来ていた。
サッカーのコーチも。
そして、3軒先に住む年配の隣人も来ていた。毎年ハロウィーンになると、リリーにペパーミントキャンディーをくれる人だった。
パテル医師まで来てくれた。
彼は後ろのほうに静かに立ち、私がお礼を言う前に帰ってしまった。
デイビッドの両親は、アリゾナから飛行機でやって来た。
義母のエレインは、小さな白い棺を見た瞬間、私にもたれかかって泣き崩れた。
「息子はどこなの?」
私は彼女を見つめた。
彼女は、すでに答えを知っていた。
息子はまだバハマにいた。
義父のリチャードは顔を背け、口元を手で覆った。
二人とも、デイビッドをかばおうとはしなかった。
それが、思っていた以上に私の心を救った。
墓地では、雨が顔を伝い、涙を隠してくれた。
牧師が祈りを終えた。
人々は帰り始めた。
私はその場に残った。
レベッカが私の肩に触れた。
「サラ」
「あと5分だけ」
「車のところで待っているわ」
全員が去ると、私は花のそばにしゃがみ込んだ。
心が受け入れられない現実を、体のほうが先に理解してしまうことがある。
私の腕は、リリーを抱き上げたがっていた。
彼女を持ち上げて、車まで運びたかった。
暖房をつけて、こんなひどい場所から帰ろうと言いたかった。
けれど、私にできたのは、最後にもう一度、冷たい木の表面に手のひらを当てることだけだった。
「パパがここにいなくて、ごめんね」
言葉が、止める間もなく口からこぼれた。
そして、私は自分の言葉を訂正した。
「違う……」
雨をぬぐった。
「それを謝る必要は、私にはない」
それは、リリーを埋葬してから4日目にして、初めて浮かんだ明確な考えだった。
デイビッドがいなかったことは、彼自身の責任だ。
彼の選択も。
彼の残酷さも。
私は、彼の失敗を愛情だと言い換えながら、一生を過ごすつもりはなかった。
その午後、私は家に戻った。
石灰岩とガラス、ホワイトオーク、大理石、そして沈黙でできた、400万ドルの巨大な邸宅。
3年前、デイビッドがどうしても買いたいと言い張った家だった。
彼は住所の持つステータスを愛していた。
円形の車寄せ。
暖房付きのガレージ。
ワインルーム。
ジム。
渓谷を見下ろす巨大な窓。
リリーが気に入っていたのは、そのうちたった一つだけだった。
自分の寝室にある、窓辺のベンチ。
私は夕方まで、そこに座っていた。
枕の上には、彼女のウサギのぬいぐるみがあった。
ベッドの脇には、図書館で借りた本が開いたまま、伏せて置かれていた。
私は本を拾い上げた。
すると、リリーの抗議の声が聞こえたような気がした。
「ママ、背表紙が壊れちゃうよ」
私は本をきちんと閉じた。
そのとき、廊下の向こうにあるデイビッドの書斎のドアが目に入った。
鍵がかかっていた。
それはいつものことだった。
彼は旅行に出るとき、必ず鍵をかけていた。
何年もの間、私は彼の説明を受け入れてきた。
顧客の機密情報。
重要な仕事の書類。
プライバシー。
けれど、悲しみは恐怖を変える。
恐怖が作り出した服従を、悲しみは剥ぎ取っていく。
デイビッドは、私たちの娘が死にかけているとき、私を見捨てた。
もう、書斎に入ることを彼が侵入だと考えるかどうかなど、どうでもよかった。
彼の緊急用の鍵は、造り付けのワイン冷蔵庫の下にある引き出しに入っていた。
私は何年も前から、その場所を知っていた。
けれど、一度も使ったことはなかった。
書斎には、杉の木と高級な会議用コロンの香りがかすかに残っていた。
机の上は完璧に整頓されていた。
ノートパソコンはなかった。
書類はきれいに並んでいた。
ペンも整然と置かれていた。
個人的な物は、一つだけ残されていた。
リリーの写真。
家族写真ではない。
リリーだけが写った写真だった。
その瞬間、私は今にも心が壊れそうになった。
彼は職場に娘の写真を置いていた。
それなのに、娘が死にかけていたとき、電話に出ることさえ拒んだのだ。
私は引き出しを開けた。
税務記録。
不動産関係の書類。
会社の書類。
特に不審なものはなかった。
だが、一番下の引き出しだけ、ほかの引き出しより奥行きが短いことに気づいた。
私は引き出しを取り外した。
その奥には、細長いスチール製の金庫がキャビネットに埋め込まれていた。
デイビッドから、そんなものがあると聞いたことは一度もなかった。
書斎の鍵束についていた小さな鍵で、金庫は開いた。
中には、2台目のノートパソコン、プリペイド式の携帯電話が3台、パスポートが2冊、そしてウィンストン・チャーチルの分厚い伝記が入っていた。
本は異様に重かった。
ページの中央部分がくり抜かれていたのだ。
中には銀行の取引明細が隠されていた。
私たちが使っている銀行のものではない。
私が知っている、どの銀行のものでもなかった。
ケイマン諸島。
英領ヴァージン諸島。
シンガポール。
残高を見て、私は二度読み直した。
814,000ドル。
120万ドル。
463,500ドル。
見覚えのない会社名が、何度も登場した。
マリナー・リッジ・ホールディングス。
ブルー・リーフ・プロキュアメント。
カルデラ・アドバイザリー。
ある書類には、デイビッドが実質的所有者として記載されていた。
別の書類には、資金移動の指示が記されていた。
そして、私の震える手を止めるものを見つけた。
私の名前だった。
サラ・ヴァンス――保証人として承認済み。
私は、その口座を見たことがなかった。
書類に署名したこともなかった。
それなのに、署名はほとんど完璧に似ていた。
ほとんど、だ。
12年間、デイビッドは私がバースデーカード、住宅ローンの書類、学校の申請書、小切手、税務書類に署名する姿を見てきた。
彼は私の「S」の曲線を知っていた。
けれど、私が名字の最後に書き添える、小さく上向きに跳ねる線だけは、いつも見落としていた。
私は彼の机に座った。
音のしない携帯を見つめた。
それから、リリーの写真を見た。
自分が強くなったとも、賢くなったとも思わなかった。
ただ、疲れ果てていた。
けれど、その疲労の奥に、何か揺るがないものが芽生えていた。
一線を引くという決意だった。
私は、それぞれの書類を見つけた場所に置いたまま写真に撮った。
そして、家の購入と遺産計画を担当してくれた弁護士、マーガレット・コールに電話した。
彼女は3回目の呼び出し音で出た。
「サラ? リリーのことを聞いたわ。本当に……心からお悔やみ申し上げます」
「ありがとう」
私は海外口座の記録を見つめた。
「助けてほしいの」
「遺産のこと?」
「デイビッドのことよ」
沈黙が流れた。
「何があったの?」
「夫が、お金を隠していると思うの」
また沈黙があった。
「いくらくらい?」
「まだわからない」
私は書類の束を見つめた。
「でも、想像するのも怖いくらいの額だと思う」
マーガレットは、私への思いやりを失うことなく、弁護士としての冷静さを取り戻した。
「何も動かさないで。彼を問い詰めてもいけない」
「できる範囲で写真を撮って。ただし、法的にあなたのものではない口座にはアクセスしないで」
「それから、サラ?」
「何?」
「彼と離婚するつもりなら、今、はっきり言ってちょうだい」
私はリリーの寝室のほうを見た。
「離婚するわ」
娘を埋葬してから、私が初めて下した決断だった。
そして、その週に起きたほかのすべてのこととは違い、その言葉を口にしても、痛みは感じなかった。
第3章:鍵のかかった引き出し
翌朝、マーガレットは私に、フォレンジック会計士のネイサン・ベルを紹介した。
ネイサンは62歳で、穏やかな話し方をする人だった。まるで、誰からも愛されるおじいさんのような雰囲気があった。
首からひもで読書用眼鏡を下げ、デイビッドの書斎全体よりも古そうな、使い込まれた革のブリーフケースを持っていた。
彼は2時間にわたって私に質問した。
マリナー・リッジ・ホールディングスという会社に覚えはあるか。
ない。
海外の銀行口座を承認したことはあるか。
ない。
デイビッドが外部の調達会社に出資していることを知っていたか。
知らない。
送金額に見覚えはあるか。
ない。
そこでネイサンは、ある書類の前で手を止めた。
「ご主人は、何の仕事をしているんでしたか?」
「ヴァンス・メリディアンの最高執行責任者よ」
デイビッドは大学時代の友人2人と、地域の物流・医療用品販売会社、ヴァンス・メリディアンを立ち上げた。
イリノイ州とウィスコンシン州で、約400人を雇用していた。
私はその会社の株を一株も持っていなかった。
デイビッドは、いつもそのことを強調していた。
会社を設立したのは、私たちが結婚する前だったからだ。
ネイサンは、2枚の書類を並べて置いた。
国内口座からの送金。
海外口座への入金。
金額は同じ。
日付も同じだった。
「これは何なの?」
「まだわかりません」
彼は書類を詳しく調べた。
「でも、何に似ているかはわかります」
「何に?」
「取引先への支払いを利用した資金の横領です」
私は彼を見つめた。
彼は説明してくれた。
正規の取引先に30万ドルを支払う権限を持つ幹部が、自分の支配する会社に資金を流したり、請求書の金額を水増ししたり、支払いを分割したり、実体のない会社を作ったりする可能性があるという。
偽の請求書が1枚なら、疑われるかもしれない。
しかし、何十枚もあれば、組織的な不正の仕組みができあがる。
「どれほど深刻なの?」
「まだわかりません」
彼は書類を指で軽くたたいた。
「ですから、わかるまでは何も決めつけないでください」
その週になって初めて、誰かが私に、最悪の事態を想像するのをやめるよう言ってくれた。
私は、その言葉に救われた。
残念ながら、最悪の可能性を示す証拠は増え続けた。
2台目のノートパソコンにはパスワードが設定されていた。
私は解除を試みなかった。
マーガレットから、そうしないよう忠告されていたからだ。
代わりに、彼女は私が合法的に所有する記録の複製を手配し、争いのない私自身の資産を守る手続きを始めた。
家は結婚後に購入したものだったが、頭金の160万ドルは父から相続したもので、私個人の財産として別に記録されていた。
いくつかの絵画は母の遺品だった。
ダイニングテーブルは祖母のものだった。
家具の多くも、相続した資金が共有財産と混ざる前に、私個人の口座から購入していた。
マーガレットの目的は、デイビッドを罰することではなかった。
資産が消えてしまうのを防ぐことだった。
48時間以内に、彼女は離婚を申し立て、夫婦共有の資金が海外に送金されている可能性を理由に、緊急の財産保全措置を申請した。
裁判官は、夫婦のどちらも、主要な共有資産を売却、移転、隠匿、または担保設定してはならないという暫定命令を出した。
私はその命令に完全に従った。
それは重要なことだった。
デイビッドは何年もの間、自分の好きなように行動し、あとから説明すればいいと考えていた。
私は彼のような人間になるつもりはなかった。
家から持ち出したものは、すべて私かリリーの所有物だったか、弁護士の明確な許可を得たものだけだった。
私たちは一つひとつ写真を撮った。
すべてを目録に記録した。
箱の数も記録した。
その間も、ネイサンは調査を続けていた。
木曜日の午後、彼から電話があった。
「サラさん、今、一人ですか?」
私はリリーの寝室の床に座り、学校の書類を整理していた。
「ええ」
「マーガレットの事務所まで来ていただけますか?」
胃が締めつけられた。
「どうして?」
「これはもう、単なる離婚問題ではなくなったからです」
2時間後、ネイサンは私の前に黄色いリーガルパッドを置いた。
彼は4年間で、合計640万ドルを超える18件の送金を特定していた。
その一部は、デイビッドが支配する会社を経由していた。
ほかの送金は、ヴァンス・メリディアンの取引先とつながっているようだった。
いくつかは海外口座を経由したあと、融資やコンサルティング収入という名目でアメリカに戻ってきていた。
そして彼は、私の偽造された署名がある書類を見せた。
それは、実体のない会社の債務を保証するものだった。
「もしこの会社が破綻していたら、あなたも関与していたと主張する人間が出てきたかもしれません」
彼は言った。
私は気分が悪くなった。
「そんなことができるの?」
「彼はすでに、そうしました」
マーガレットが身を乗り出した。
「でも、きちんと記録を残せば、その偽造署名はあなたにとって不利になるどころか、有利な証拠になるわ」
私はデイビッドのメッセージを思い出した。
「何か問題が起きるたびに、全部僕の責任にされる」
どうやら、何百万ドルもの秘密の金融取引は、彼自身の責任だったらしい。
ただし、リスクを負わせるために私の署名が必要になったときだけは、別だった。
ネイサンは、もう一つの記録を提示した。
ブルー・リーフ・プロキュアメントは、12か月間で18万6,000ドルを「JMパフォーマンス・コンサルティング」に支払っていた。
その会社の郵送先住所は、ジュリアン・マーサーの住所だった。
数秒間、誰も何も言わなかった。
私は笑いそうになった。
おかしかったからではない。
その金額が、あまりにもばかげて思えたからだ。
あの秋、リリーが欲しがっていたサッカーシューズは35ドルだった。
デイビッドは「お金は木に生えているわけじゃない」と言い、クリスマスまで待つように彼女に言った。
彼は7歳の娘に、お金を責任を持って使うことについて10分も説教した。
その一方で、ジュリアンの会社には18万6,000ドルが支払われていた。
「彼女は何についてコンサルティングしていたの?」
ネイサンは首を横に振った。
「わかりません」
「彼女はピラティスのインストラクターよ」
「それなら、物流調達のコンサルティングとしては、ずいぶん高額な報酬ですね」
その夜、私はリリーのクローゼットを開けた。
小さな靴が床に並んでいた。
サッカーシューズ。
レインブーツ。
片側に、自分の名前を書こうとした跡が残っているピンクのスニーカー。
私はカーペットの上に座った。
そして、ようやくデイビッドのことで泣いた。
不倫のためではない。
お金のためでもない。
彼が電話を無視したことだけが理由でもなかった。
私は、リリーに彼の不在を説明してきた数え切れない瞬間を思い出していた。
「パパは忙しいの」
「パパは会議があるの」
「パパだって来たかったのよ」
「パパは、ここにいられなくてもあなたを愛しているの」
何年もの間、私はデイビッドの身勝手さを、幼い娘にも耐えられる説明に置き換えてきた。
そして、リリーが亡くなったときでさえ、私はまだ彼を呼び戻そうとしていた。
翌朝、マーガレットから電話があった。
「ネイサンが、ある人物と話をしたの」
「誰?」
「連邦捜査機関の関係者よ」
私は目を閉じた。
「私も何かの罪に問われるの?」
「いいえ」
その答えに驚いた。
彼女は続けた。
「でも、すでに捜査が始まっているの」
私は目を開けた。
「何ですって?」
「どうやら、ヴァンス・メリディアンは取引先への支払いに不審な点があったため、数か月前から調査を受けていたらしいの。海外の会社とデイビッドを直接結びつける証拠が足りなかったのよ」
私は鍵のかかった書斎を見た。
「それで、今は?」
「今は、つながりを立証できる可能性があるわ」
その日の午後、マーカス・ヘイル特別捜査官が訪ねてきた。
彼は家に踏み込んできたりしなかった。
私を脅したり、劇的な演説をしたりもしなかった。
彼は私のキッチンテーブルに座り、レベッカが出したコーヒーを受け取り、身分証を見せ、話せる範囲のことを説明した。
捜査は実際に進んでいた。
すべてを明かすことはできない。
私が持っている書類は、捜査に関係している可能性がある。
彼は、私がそれらをどうやって見つけたのか、正確に知る必要があった。
私はすべてを説明した。
葬儀。
鍵のかかった書斎。
隠された引き出し。
スチール製の金庫。
銀行の明細。
2台目のノートパソコン。
話し終えると、彼はしばらく黙った。
それから尋ねた。
「ヴァンスさん、ご主人は、あなたがこれらの資料を見つけたことを知っていますか?」
「いいえ」
「離婚を申し立てたことは?」
「知りません」
「いつ帰国する予定ですか?」
私はキッチンに置きっぱなしになっていたデイビッドの旅程表を確認した。
「来週の木曜日です」
「彼は個人で小型機を利用できますか?」
「個人では持っていません」
「バハマから海外に移動することは?」
「もちろんできます」
ヘイルはうなずいた。
「この件について、ご主人に連絡しないでください」
「そのつもりはありません」
その夜、デイビッドからようやく連絡があった。
リリーが亡くなってから、9日後のことだった。
「もう落ち着いたか?
木曜日の朝に帰る。
この旅行で、僕たちの関係についていろいろとはっきりした。境界線について話し合う必要がある」
私は一度だけ読んだ。
それからレベッカに携帯を渡した。
彼女は画面を見つめた。
「まだ何も知らないの?」
「私が伝えたことは、知っているわ」
「サラ……」
「信じないことを選んだのよ」
20分後、またメッセージが届いた。
「ジュリアンも乗り継ぎ便が変更になったから、シカゴ経由で帰ることになった。
もし彼女に会っても、変な態度を取るなよ」
レベッカはそれを読んで、ささやいた。
「なんてこと……」
私は何も感じなかった。
最初は、それが怖かった。
でも、すぐに理解した。
傷が深すぎると、怒りさえ湧かなくなることがある。
デイビッドに理解してもらう必要のある段階は、もう過ぎていた。
彼が何を信じようと、自由だった。
彼が帰ってくれば、現実のほうから彼を迎えに来る。
第4章:14日間
家の中から、少しずつ物がなくなっていった。
怒りに任せてではない。
引っ越し業者がテレビを壁から引き剥がし、デイビッドが驚く姿を想像しながら荷物を運び出すようなこともしなかった。
そんなほうが、きっと楽だっただろう。
実際には、持ち物一つひとつについて、決断を迫られた。
残す。
保管する。
寄付する。
置いていく。
最もつらかったのは、リリーの寝室だった。
私は、ほとんどすべてを残すことにした。
彼女の本。
毛布。
月の形をしたランプ。
ミシガン州への旅行で拾った貝殻。
23本の友情ブレスレット。
寝室のドアの下から差し入れてくれた、手書きのメモすべて。
「ママだいすき100000000」
「明日パンケーキ食べられる?」
「お風呂で怒ってごめんなさい」
それらは、私自身の手で箱に詰めた。

レベッカは、これからどこに住むつもりなのかと尋ねた。
私は20分ほど離れた場所にある、寝室が3つあるタウンハウスを借りていた。
もっと大きな家に住む余裕がなかったからではない。
もう、デイビッドの野心を形にした記念碑のような家に住みたくなかったからだ。
そこには、ささやかな裏庭があった。
狭いキッチン。
うまく機能しない暖炉。
そして、午後4時頃になると、2階の廊下いっぱいに差し込む日差しがあった。
初めて内見したとき、リリーが階段にランドセルを放り出す姿を想像した。
私は、その家を借りるのをやめようかと思った。
それから、そこで生きていく自分を想像した。
私は契約書に署名した。
その14日間、デイビッドから電話があったのは1回だけだった。
私にではない。
母親にだった。
エレインは、私のダイニングテーブルに座っていたとき、携帯が鳴った。
画面を確認した。
「息子だわ」
胸が締めつけられた。
「出てもいいのよ」
「何を言えばいいのかわからないわ」
「それはあなたと彼の問題よ」
彼女はリビングへ移動した。
断片的な会話が聞こえてきた。
「そうよ」
「違うわ」
「彼女はあなたに伝えたのよ」
長い沈黙。
そして、彼女の声が震えた。
「いいえ、デイビッド。そんなことを言うんじゃないわ」
再び沈黙。
「だって、私は彼女と一緒に棺のそばに立っていたのよ」
私は荷造りの手を止めた。
エレインは泣き始めた。
「そうよ、あなたの娘よ」
沈黙。
「いいえ、私は嘘なんてついていない」
そして、さらに大きな声で言った。
「あなたの妻は、51回も電話したのよ!」
彼女は続けた。
「いいえ。今度はあなたが私の話を聞きなさい」
私は2階へ上がった。
もう、私が関わる必要のない会話もあった。
20分後、エレインがリリーのセーターを畳んでいた私のところへ来た。
「彼は、何が起きたのかわからなかったと言っているわ」
私は畳み続けた。
「あなたが、旅行を中止させるために嘘をついていると思ったんですって」
私は、もう一枚セーターを箱に入れた。
「あなたたちがずっと喧嘩していたから、彼は……」
「エレイン」
彼女は言葉を止めた。
私は顔を上げた。
「彼の説明なんて、もう必要ないの」
彼女の表情が崩れた。
「彼は私の息子なの」
「わかっているわ」
「私は彼を愛しているのよ」
「わかっている」
「でも、今の彼がどんな人間なのか、私にはわからないの」
私はうなずいた。
「私にもわからないわ」
「彼は、あなたと話したがっているの」
「嫌よ」
「サラ……」
「私は12時間もの間、彼が電話に出てくれるように必死に頼んでいたの」
私の声は静かなままだった。
「彼がなぜ電話に出なかったのかについて、彼の気持ちを楽にするために、これ以上1分だって使いたくない」
エレインはうつむいた。
それから、残っていたセーターを一緒に畳んでくれた。
デイビッドは留守番電話にメッセージを残し始めた。
私は一度も応答しなかった。
最初のメッセージは、困惑した声だった。
「サラ、母さんから聞いたよ。何が起きたのか、理解できないんだ」
「電話してくれ」
2回目は怒っていた。
「どうして、あんなことをメッセージで送るんだ? いったい何を考えているんだ?」
3回目は、おびえた声だった。
「頼むから、こんなの嘘だと言ってくれ」
4回目には泣いていた。
「知らなかったんだ」
5回目には、出来事を書き換えようとしていた。
「僕たちがうまくいっていなかったのは知っているだろ。君が僕を無理やり帰らせようとしていると思ったんだ」
6回目には電波の悪さを言い訳にした。
7回目には休暇のせいにした。
8回目にはジュリアンのせいにした。
9回目には、再び私を責めた。
12回目のメッセージで、彼はようやく私が予想していた言葉を口にした。
「間違いを犯した」
間違い。
牛乳を買い忘れるのは間違いだ。
ガレージのドアを開けっぱなしにするのも間違いだ。
会議が長引いて、学校の発表会に間に合わなかったのも間違いだ。
51回の電話を意図的に拒否し、娘が死ぬかもしれないと知らされ、妻に自分へ連絡することを禁じ、愛人と一緒にヨットに残り続けること。
それは、単なる一つの間違いではない。
一連の選択だった。
私はすべての留守番電話の記録を保存し、マーガレットに渡した。
それから、もう聞くのをやめた。
ヘイル捜査官からは2回連絡があった。
2回目の電話で、彼はデイビッドの帰国予定に変更がないか尋ねた。
「ありません」
「フライトは?」
私は詳細を伝えた。
すると、彼は意外なことを言った。
「ヴァンスさん、木曜日のことについて、はっきりさせておきたいのです」
私は待った。
「ご主人に何が起きるかは、あなたが引き起こしていることではありません」
私は笑いそうになった。
連邦捜査官でさえ、私が何年も忘れていたことを理解していた。
「あなたは情報を提供しました。
捜査官は独自に情報を検証しています。
起訴するかどうかは、証拠に基づいて判断されます。あなたの結婚生活が理由ではありません」
「ありがとうございます」
「本当にそう思っています」
「私もです」
水曜日の夜、私は初めてタウンハウスで眠った。
家具はほとんど届いていなかった。
マットレス。
ランプが2つ。
箱がいくつか。
レベッカが泊まってくれた。
午前3時12分、私はリリーが病院から私を呼んでいる夢を見た。
目が覚めてからの3秒間、彼女はまだ生きていると信じていた。
それから、現実が戻ってきた。
私はマットレスのそばに座り、喉が痛くなるまで泣いた。
レベッカが現れた。
「大丈夫?」
「いいえ」
彼女は私の隣に座った。
どちらも、私の答えを変えようとはしなかった。
日の出とともに、私はシャワーを浴びた。
黒いパンツ。
グレーのセーター。
化粧はしなかった。
結婚指輪もつけなかった。
マーガレットが送達人を手配していた。
ヘイル捜査官は、それ以外のことをすべて整えていた。
私は細かい手順をすべて知っていたわけではない。
そして、知る必要もなかった。
午前8時半までに、私は以前住んでいた地区へ車を走らせ、スーザンの家に車を停めた。
スーザンは隣人で、リリーが生まれたときから彼女を知っていた。
事情を説明すると、彼女はガレージを開けてくれた。
「必要なだけ、ここにいていいのよ」
彼女の家の正面の窓から、私たちの家が見えた。
かつての私の家。
自分の車がないだけで、見慣れたはずの車寄せが知らない場所のように感じられた。
家の中には、3人の男性が待機していた。
イリノイ州警察の警察官が2人。
そして、ヘイル捜査官。
玄関のテーブルには、厚い革のファイルが置かれていた。
午前9時17分、黒いSUVが通りに入ってきた。
胃が締めつけられた。
デイビッドが帰ってきたのだ。
第5章:夫が、私が待っていると思っていた家
SUVは、私たちの家の車道の端に立つ、葉を落としたオークの木の下で止まった。
最初に降りてきたのはデイビッドだった。
彼は日焼けしていた。
そのことが、吐き気がするほど不快だった。
私たちの娘が高熱から葬儀へと向かう間、彼は太陽の下で休暇を楽しんでいたのだ。
白いスニーカー。
紺色のパンツ。
サングラス。
そして、結婚10周年に私が贈った高級腕時計。
助手席からジュリアンが降りてきた。
大きなショッピングバッグを片手に持ち、手首には麦わら帽子を引っかけていた。
通りの反対側からでも、彼女が何かを言い、デイビッドが笑っているのが見えた。
一瞬だけ、二人は普通のカップルが休暇から帰ってきたように見えた。
スーツケース。
日焼けした肌。
免税店の買い物袋。
荷物を降ろす運転手。
それから、デイビッドは家を見つめた。
笑顔が消えた。
玄関にはリースがなかった。
車もなかった。
正面の部屋には明かりもついていなかった。
彼はジュリアンに何かを言った。
彼女は肩をすくめた。
運転手は立ち去った。
デイビッドは鍵を開け、家の中に入った。
スーザンの窓からは、彼の姿が見えなくなった。
あとになって、ヘイル捜査官が家の中で起きたことを説明してくれた。
デイビッドは玄関に入ると、声をかけた。
「サラ?」
返事はなかった。
彼はさらに奥へ進んだ。
リビングは、ほとんど空っぽだった。
母の絵画はなくなっていた。
祖母の敷物もなかった。
リリーが練習に使っていたピアノも片づけられていた。
デイビッドは数秒間、その場に立ち尽くしていたそうだ。
それから笑った。
面白かったからではない。
傲慢な人間は、予想外の現実に直面すると、笑いで反応することがある。
彼は2階に向かって叫んだ。
「サラ、いい加減にしろよ!」
ジュリアンは玄関の近くに立ったままだった。
デイビッドはスーツケースを置いた。
「この旅行は、僕たちの結婚生活に必要なことだったんだ!」
彼は大声で言った。
「もし、これが大げさな別居騒ぎのつもりなら、そんなことには付き合わないぞ!」
そのとき、ヘイル捜査官が廊下から姿を現した。
その後ろには、州警察の警察官が2人立っていた。
デイビッドは動きを止めた。
ヘイル捜査官によれば、デイビッドが心から恐怖を感じているように見えたのは、その瞬間が初めてだったという。
「デイビッド・ヴァンスさんですか?」
デイビッドは彼らのバッジを見た。
「そうですが」
ヘイル捜査官は革のファイルを開いた。
「私はマーカス・ヘイル特別捜査官です」
デイビッドはジュリアンに視線を向けた。
「これは何だ?」
「あなたに対する連邦逮捕状が出ています」
ジュリアンはショッピングバッグを落とした。
デイビッドはその場に立ち尽くした。
ヘイル捜査官は説明を続けた。
正式な容疑は、後日、新聞の見出しになるものよりもはるかに詳しい内容だった。
通信手段を利用した詐欺。
共謀。
マネーロンダリング。
金融書類に関する偽造の疑い。
そのほかの容疑についても、捜査が続いていた。
デイビッドは、ようやく口を開いた。
「何かの間違いに決まっている」
ヘイル捜査官は、ただ指示を出した。
「後ろを向いて、両手を背中に回してください」
「待ってくれ」
州警察の警察官が近づいた。
デイビッドの声が鋭くなった。
「私が誰だかわかっているのか?」
通りの反対側で、スーザンがため息をついた。
「自分が思っているほど、みんなは彼のことを知らないみたいね」
私は何も言わなかった。
デイビッドは、私が突然現れて、すべてを解決してくれることを期待するかのように、空っぽの玄関を見回した。
それは、いつも私の役目だった。
予定を調整する。
夕食の手配をする。
学校の問題を解決する。
難しい話し合いを引き受ける。
彼の両親が傷ついたときには、気持ちをなだめる。
リリーの失望を和らげる。
誰かに気づかれる前に、デイビッドの失敗を取り繕う。
けれど、私はそこにいなかった。
彼は別の質問をした。
「妻はどこにいる?」
ヘイル捜査官は答えなかった。
デイビッドはジュリアンのほうを向いた。
彼女は玄関のドアに背中を押しつけるようにして、後ずさりしていた。
「お前、何をしたんだ?」と彼は問い詰めた。
彼女の表情が変わった。
「私が?」
「誰かに何か話したのか?」
「何のことなのかもわからないわ」
「ブルー・リーフだ」
ジュリアンの顔から血の気が引いた。
警察官の一人が彼女の反応に気づき、ヘイル捜査官に視線を送った。
彼女は首を横に振った。
「デイビッド、お願い、やめて」
「黙れ」
「私に黙れなんて言わないで!」
デイビッドに手錠がかけられる前から、14日間を海の上で楽しんだ二人は、互いを責め始めていた。
その光景を見ても、私は何の満足感も覚えなかった。
それが、自分でも意外だった。
この2週間、私はこの朝を一つの終わりとして想像していた。
けれど、そうではなかった。
デイビッドが恐怖を感じたところで、何も変わらない。
リリーは、もう戻ってこない。
彼女の部屋は、空っぽのままだ。
明日も、いつもどおりやってくる。
午前9時31分、警察官たちはデイビッドを外へ連れ出した。
彼の手は背中に回されていた。
サングラスはなくなっていた。
彼は通りを見回した。
そして、スーザンの窓越しに私を見つけた。
「サラ!」
私は動かなかった。
彼は再び叫んだ。
「サラ!」
ヘイル捜査官が、彼を覆面車両へと誘導した。
デイビッドは体をひねり、私のほうを向いた。
「お願いだ!」
その言葉で、私は壊れそうになった。
彼を助けたかったからではない。
リリーこそ、その言葉を聞くに値する子だったからだ。
「お願いだから、電話に出て」
「お願いだから、帰ってきて」
「お願いだから、パパでいて」
それなのに、デイビッド・ヴァンスが14日間で初めて必死に口にした「お願い」は、自分自身のためのものだった。
私は外へ出た。
スーザンが私の腕に触れた。
「行かなくてもいいのよ」
「わかっているわ」
前の晩の雨で、舗道はまだ黒く濡れていた。
私が通りを渡ると、デイビッドはじっと見つめてきた。
彼は急に老けて見えた。
「サラ」
私は20フィート、約6メートルほど離れたところで立ち止まった。
「何があったんだ?」
最初、私は彼の質問の意味がわからなかった。
それから、彼は逮捕について聞いているのではないと気づいた。
リリーのことだった。
「リリーに何が起きたんだ?」
私の中ですべてが静まり返った。
「髄膜炎よ」
彼は目を閉じた。
「なんてことだ……」
「一度だけ、目を覚ましたの」
彼は目を開けた。
「あの子は……」
「いいえ」
彼の口元が震えた。
「何が、いいえ、なんだ?」
「あなたのことは聞かなかったわ」
そんなことを言うつもりではなかった。
でも、それが真実だった。
彼は打ちのめされたような顔をした。
「寒いって言ったの」
彼は泣き始めた。
12年間の結婚生活で、私はデイビッドが泣くところを3回しか見たことがなかった。
結婚式のとき。
父親が心臓手術を受けたとき。
リリーが生まれたとき。
今、彼は家の外で手錠をかけられたまま、泣いていた。
「知らなかったんだ」
「あなたは知っていた」
「サラ、誓って言うよ……」
「リリーが集中治療室にいると伝えたわ」
「僕は……」
「死ぬかもしれないと伝えた」
「君と僕は喧嘩していたんだ」
「私たちは喧嘩していたわ」
「君が僕を家に帰らせようとしていると思ったんだ」
「そうよ」
私の声が、ついに震えた。
「私はあなたに帰ってきてほしかったの」
彼は何も言えなかった。
「あなたは、あの子の父親だったのよ」
「わかっている」
「いいえ」
私は首を横に振った。
「今になって、わかったのよ」
彼は、その違いを受け止めた。
デイビッドは顔を伏せた。
「そばにいるべきだった」
「そうよ」
「自分を一生許せない」
「それは、もう私の問題じゃないわ」
彼は顔を上げた。
「サラ、お願いだ。こんな終わり方はやめてくれ」
「ほかに、どんな終わり方があったの?」
「説明させてくれ」
「あなたには12時間あった」
彼は私を見つめた。
「私は51回も、ヨットが娘より大切だった理由を説明する機会をあなたに与えたのよ」
「わからなかったんだ」
「あなたは電話を拒否した」
「怒っていたんだ」
「私もよ」
「君に支配されていると思ったんだ」
「だから、リリーを無視して私に罰を与えたの?」
「違う」
「でも、あなたがしたのは、そういうことよ」
彼の肩が崩れ落ちた。
彼の後ろでは、ジュリアンが警察官のそばに立ち、青ざめたまま黙っていた。
私は初めて、彼女をまっすぐに見た。
彼女が口を開きかけた。
私は手を上げた。
「やめて」
彼女は口を閉じた。
私には、ジュリアンと話すことなど何もなかった。
彼女は私に誓いを立てたわけではない。
娘が必要としていたとき、電話に出ると約束したわけでもない。
それを約束したのは、デイビッドだった。
彼は再び話しかけてきた。
「サラ、お金のことだが……」
「興味ないわ」
彼は驚いたようだった。
「何だって?」
「弁護士が守る必要があると言うから、自分の財産を守ることには関心がある。
自分を守ることにも関心がある。
あなたのせいで、罪のない人たちが職を失わないようにすることにも関心がある」
私は息をのんだ。
「でも、誰かがあなたの名前を口にしたとき、私が何を思い出すか知りたい?」
彼の表情がこわばった。
「午前5時41分の集中治療室を思い出すの」
「サラ……」
「娘が文字どおり死にかけていたとき、私は『誰かが文字どおり死にかけているのでなければ』という言葉を読んでいた」
彼は、むせび泣いた。
抑えようのない、むき出しの泣き声だった。
「そして、それは600万ドルとは何の関係もないのよ」
ヘイル捜査官が近づいた。
「そろそろ行きます」
デイビッドは取り乱した。
「サラ、待ってくれ」
「私は待ったわ」
私は空っぽの家に目を向けた。
「何年もね」
そして、私は歩き去った。
弁護士事務所の外での会話を除けば、それが私たちの最後の会話になった。
その日の午後、デイビッド逮捕のニュースは地元に広がった。
ヴァンス・メリディアンは即座に彼を職務停止処分にした。
数週間後、取締役会は彼を解任した。
彼の2人の共同経営者は捜査に協力し、海外の会社については知らなかったと公に述べた。
最終的にネイサンは、関連口座を通じて800万ドル以上が移動していたことを突き止めた。
そのすべてが盗まれたお金というわけではなかった。
隠されていた収入もあった。
会社の資金が関係していたものもあった。
ほかの送金については、その分類をめぐって弁護士たちが何か月も議論した。
ジュリアンのコンサルティング会社も、捜査の対象となった。
しかし、最終的にデイビッドが犯したと認めた犯罪について、彼女が起訴されることはなかった。
彼女の弁護士たちは、デイビッドがすべての支払いを合法的なものだと説明していたと主張した。
私は、彼女が本当のことを言っているかどうかを判断しようとはしなかった。
それは彼女の物語だった。
私自身の物語だけでも、すでに十分につらかった。
最終的に、デイビッドは司法取引に応じた。
手続きには1年以上かかった。
人々は、正義が一つの劇的な場面で実現すると想像しがちだ。
手錠。
判決。
刑の宣告。
けれど、実際には、もっと地味なことの積み重ねで進んでいく。
面談。
書類。
延期。
弁護士。
留守番電話。
申請書。
予定の都合で何か月も先延ばしになる裁判の日程。
私は、もう知りたくもないほど多くのことを、書類仕事について学んだ。
離婚は、刑事事件より先に成立した。
家の購入に使った相続財産の記録が残っていたことに加え、デイビッドの金銭的不正もあったため、私の弁護士たちは彼の予想をはるかに超える財産を守ることができた。
やがて、家は売却された。
私は、もうあの家を必要としていなかった。
デイビッドの弁護士たちは、売却額の一部を求めた。
捜査官たちは、どの資金がどの資産に関係していたのかを判断する必要があった。
私が欲しかったのは、リリーの持ち物を保管した箱だけだった。
売却が完了したとき、マーガレットは私に尋ねた。
「ほっとした?」
「いいえ」
「悲しい?」
「いいえ」
彼女は優しく微笑んだ。
「じゃあ、どんな気持ち?」
私は考えた。
「終わった、という感じ」
それが一番近かった。
結び――私が待つのをやめた電話
リリーが亡くなってから1年後、私は午前2時47分に目を覚ました。
パテル医師から、娘がどれほど危険な状態にあるかを説明された、あの時刻だった。
私は何か月も、その日が来ることを恐れていた。
頭で思い出すより先に、体が覚えているのではないかと思っていた。
そのとおりだった。
タウンハウスの暗闇の中で目を開けた瞬間、なぜ目が覚めたのか理解した。
数分間、私は暗闇の中に横たわっていた。
それから階下へ降りた。
リリーの黄色い毛布が、ソファの上にきれいに畳まれていた。
私は一度、保管箱にしまおうかと考えたことがあった。
しまわなくてよかったと思った。
私は毛布を肩にかけ、お茶をいれた。
タウンハウスは、もう空っぽの場所ではなくなっていた。
壁には写真が飾られていた。
棚には本が並んでいた。
レベッカと一緒に、遺品整理のセールでダイニングテーブルを見つけた。
枯らさずに育てるのに苦労している植物もあった。
裏口のそばには靴が並んでいた。
キッチンの窓辺には、5歳のリリーが絵を描いた、縁の欠けた青いマグカップが置いてあった。中には鉛筆が入っていた。
私は、前に進むために、娘を消し去る必要はないのだと学んだ。
それが、かつて私が最も恐れていたことだった。
リリーが亡くなってからの数か月間、幸せを感じることは、娘への裏切りのように思えた。
レベッカに笑わせてもらった最初の日、私はその直後に泣いてしまった。
一晩中眠れた最初の朝、昼食の時間まで罪悪感に苦しんだ。
やがて、悲嘆のカウンセラーであるエヴァンズ博士が、私にある言葉を教えてくれた。
私は後日、その言葉を書き留めた。
「娘を愛することと、娘を失ったあとも生き続けることは、相反するものではありません」
その言葉を信じられるようになるまで、何か月もかかった。
私はパートタイムで仕事に復帰した。
月に2回、リリーが亡くなった病院の親の支援プログラムでボランティアをするようになった。
自分が特別に賢くなったからではない。
たいていは、誰かの隣に座っているだけだった。
それで十分なこともあった。
パテル医師は、今もそこで働いていた。
私がボランティアの名札をつけている姿を初めて見たとき、彼は廊下で立ち止まった。
「ヴァンスさん?」
「サラと呼んでください」
彼は悲しげに微笑んだ。
「サラさん」
私は、リリーを救おうとしてくれたことに感謝した。
彼は目を伏せた。
「もっと時間があればよかったのですが」
「私もそう思います」
私たちの会話は、そこで終わった。
デイビッドは、連邦拘置施設から手紙を送り始めた。
最初のうちは、私は開封せずに送り返した。
その後、マーガレットから、財産について触れている手紙が1通あるため、保管しておくよう勧められた。
私は法的に関係する情報がないか、一通ずつスキャンするようになった。
ほとんどの手紙には、同じ言葉が形を変えて繰り返されていた。
ごめん。
悲しみ。
間違い。
お願い。
家族。
許し。
ある手紙には、母親からリリーの死を知らされたときのことが、6ページにわたって書かれていた。
私は途中で読むのをやめた。
彼が娘の死を知ったときの経験まで、私が背負う必要はなかった。
別の手紙では、私からの51回の電話が夢に出てくると書かれていた。
その夢の中では、彼は最初の電話に出ることもあった。
10回目に出ることもあった。
50回目に出ることもあった。
どの夢も、リリーが亡くなる前に病院へ駆けつけるところで終わった。
私はそれを読んで泣いた。
結婚生活のためではない。
決して実現しなかった人生を思って泣いたのだ。
デイビッドが電話に出ていた人生。
リリーが父親の声を聞けた人生。
娘が死にかけているとき、父親が私たちを意図的に拒絶しているのではないかと考えながら、私は娘の隣に座らずに済んだ人生。
人々は、私が思っていた以上に、許しについて尋ねてきた。
エレインは一度、私に尋ねた。
デイビッドの弁護士も、それとなく許しについてほのめかした。
共通の友人は、こう言った。
「怒りを抱え続けても、傷つくのは自分だけよ」
私は、その言葉が大嫌いだった。
人々は、悲しんでいる女性の怒りを見ると居心地が悪くなる。
だから、早く許すようにと急かすことが多い。
やがて私は、自分なりの答えを見つけた。
毎朝、デイビッドを憎みながら目を覚ますわけではない。
夜ごとに復讐を計画しているわけでもない。
彼に苦しんでほしいとは思わない。
彼が苦しむ姿を見る必要もない。
でも、自分が立ち直ったと証明するために、彼の行為を許せるものだと呼ぶ必要もない。
平穏とは、関係を修復することではない。
ましてや、すべてを帳消しにすることでもない。
私は怒りを手放すことができる。
それでも、デイビッドを再び自分の人生に迎え入れる必要はない。
リリーが9歳になるはずだった誕生日に、レベッカがチョコレートケーキを持ってきてくれた。
私はかつて、娘の誕生日は、彼女がいないことを思い出すだけの日になるのではないかと恐れていた。
けれど、その日は違った。
母、エレイン、リチャード、そしてリリーの仲の良かったクラスメート3人と、その保護者たちを招いた。
私たちは、リリーとの思い出を語り合った。
友達のソフィーは、昼食のとき、リリーがグリーンピースをナプキンに隠していたことを思い出した。
担任の先生は、教室の掲示物にあったスペルミスをリリーが見つけ、そのあと掲示物に向かって謝っていたことを話してくれた。
リチャードは、リリーに釣りを教えたときの話をした。
リリーはミミズがかわいそうで、こっそり全部庭に戻していたのに、彼は気づかないふりをしていたという。
私たちは、涙が出るまで笑った。
そして、また笑えるようになるまで泣いた。
エレインは、小さな箱を持ってきた。
「うちで見つけたの」
中には、写真が入っていた。
生まれたばかりのリリーを抱くデイビッド。
彼は29歳だった。
疲れ切っていた。
怯えていた。
そして、完全に娘に夢中だった。
数秒間、私は息ができなかった。
「ごめんなさい」と、エレインは慌てて言った。「こんなもの、持ってこないほうがよかったかしら……」
「いいえ」
私は写真に触れた。
「持ってきてくれてよかったわ」
あの頃のデイビッドは、確かに存在していた。
それも、悲しみの中にあるもう一つのつらい真実だった。
デイビッドはリリーを愛していた。
そして、彼女を裏切った。
その両方が真実だった。
良い思い出が、最後の裏切りを消してくれるわけではない。
けれど、最後の裏切りがあったからといって、幸せだった思い出のすべてが嘘になるわけでもない。
私はその写真を、リリーの思い出の箱に入れた。
デイビッドを取り戻したかったからではない。
彼もまた、リリーの人生の一部だったからだ。
その違いを受け入れたとき、私は少しだけ平穏を感じることができた。
みんなが帰ったあと、私はケーキの皿をキッチンに運んだ。
シンクのそばで、携帯が充電されていた。
何年もの間、あの小さな機械が私の感情を支配していた。
デイビッドから電話は来るだろうか。
電話に出てくれるだろうか。
また遅刻するのだろうか。
また約束を取り消すのだろうか。
帰ってくるだろうか。
私たちを選んでくれるだろうか。
私は画面を確認した。
不在着信はなかった。
待ち続けるメッセージもなかった。
初めて、沈黙が心地よく感じられた。
私は2階へ上がり、リリーの持ち物を置いている小さな部屋へ入った。
そこは、彼女をまつるための場所ではなかった。
ただの部屋だった。
彼女の本。
いくつかのおもちゃ。
黄色いレインコート。
病院でつけていた紫色のブレスレット。
私は窓辺に座り、思い出の箱を開けた。
一番下には、かつてマーガレットから保管するように言われた書類があった。
リリーが病院に運ばれた夜の、私の携帯の発信履歴だった。
デイビッド・ヴァンスへの発信、51回。
私は最初の記録を指でなぞった。
午前1時18分。
それから最後の記録を見た。
午前5時58分。
何年もの間、その記録はデイビッドに見捨てられたことの象徴だった。
けれど、その夜、私は別のものを見た。
それは、私が最後までそばにいたことの証明でもあった。
私は電話をかけた。
諦めなかった。
リリーを抱き上げて病院へ運んだ。
書類に署名した。
質問をした。
彼女の手を握った。
最後の鼓動が止まるまで、そばにいた。
何年もの間、デイビッドは私に言い続けてきた。

電話をかけすぎだ。
心配しすぎだ。
感情的すぎる。
要求が多すぎる。
息苦しい。
けれど、娘が誰かを必要としていたとき、そうした性質こそが、私を彼女のそばにいさせてくれた。
私は発信履歴を折りたたみ、箱に戻した。
そして、前歯が2本抜けた状態で笑っているリリーの写真を手に取った。
「ママは、ちゃんとそばにいたよ」
私はささやいた。
それこそが、私が理解する必要のあったことだった。
娘を救えたということではない。
私には、救えなかった。
すべてを解決できたということでもない。
私には、できなかった。
デイビッドに理解させたということでもない。
そんなことは、もう重要ではなかった。
ただ、一つだけ。
私は、あの子のそばにいた。
デイビッドは会社を失い、一時的に自由を奪われ、結婚生活と名声を失った。そして、すべてを賭けて築き上げた財産の大半も失った。
けれど、そうした損失のどれも、彼を最も苦しめるものではなかった。
何年も経ってから、エレインが教えてくれた。
デイビッドは時折、電話の着信音を聞いたような気がして、目を覚ますことがあるという。
彼を息苦しいと感じさせた妻からの51回の電話。
電話に出る機会が51回あった。
リリーが手遅れになる前に、彼女が必要としていた父親になるチャンスが51回あった。
彼が自分を許せたのかどうか、私にはわからない。
そして、もう知る必要もなかった。
リリーの物語は、ヨットの上で終わったわけではない。
海外の銀行口座の中で終わったわけでもない。
連邦捜査官が父親を逮捕したとき、400万ドルの空っぽの家の中で終わったわけでもない。
私にとって、リリーの人生は今もそこにある。
黄色い毛布。
縁の欠けた青いマグカップ。
こっそり隠されたグリーンピース。
助けられた釣り用のミミズ。
友情ブレスレット。
そして、悪夢を見た夜に、私に髪をなでてほしいと頼んだ、小さな女の子。
何年もの間、デイビッドは、私が彼を許さないことこそが、自分にできる最悪の仕打ちだと思っていた。
彼は間違っていた。
彼にとって本当に最悪だったのは、もっと静かなことだった。
私がようやく、彼からの返事を待つのをやめたことだった。
